は千人からあって、腕前は甲源一刀流の第一で、どうしてこうしてと、それが何のざま、さんざん腹を立てても、やっぱり帰するところは我が夫の意気地のないということに帰着して、どうしても夫をさげすむ心が起ってきます。夫をさげすむと、どうしてもまた憎いものの竜之助の男ぶりが上ってきます。妻として夫を侮《あなど》る心の起ったほど不幸なことはない。
 もしも自分が強い方の人であったならば、どのくらい気強く、肩身も広かろう。武術の勝負と女の操。竜之助のかけた謎《なぞ》が頑《がん》として今も耳の端で鳴りはためくのです。
 邸で会った竜之助と、水車小屋の竜之助。その水車小屋では、穀物をはかる斗桶《とおけ》に腰をかけていた竜之助。神棚の上には蜘蛛《くも》の巣に糠《ぬか》のくっついた間からお燈明《とうみょう》がボンヤリ光っていた、気がついた時は自分は縛られていた、上からじっと見据《みす》えた竜之助。
 冷やかな面《かお》の色、白い光の眼、人の苦しむのを見て心地《ここち》よさそうに、
「試合の勝負と女の操」
と言って板の間を踏み鳴らした。
 それから、その時の竜之助の姿が眼の前にちらついて、憎い憎い念《おもい》が、いつしか色が変って妙なものになり行くのです。
「お山の太鼓が朝風に響く時までにこの謎を解けよ」
という一言。それを思い出すごとにお浜の胸の中で早鐘《はやがね》が鳴ります。
 その夜、竜之助は己《おの》が室に夜《よ》更《ふ》くるまで黙然《もくねん》として、腕を胸に組んで身動きもせずに坐り込んでいます。
 人を斬ろうとして斬り損じたこと、秘蔵の藤四郎を盗まれたこと、そのほかに、考えても考えても、わけのわからぬものが一つあるのです。与八をそそのかして、宇津木のお浜を縄《なわ》にまでかけて引捕《ひっとら》えさしたのは何のためであろう。お浜が邸を出るまでは、そんな考えはなかったが、女が門を出てから、どうしてもこの女をただ帰せないという考えが勃然《ぼつねん》として起ったので――竜之助の心には石よりも頑固《がんこ》なところと、理窟も筋道も通り越した直情径行《ちょくじょうけいこう》のところと、この二つがあって、その時もまた、初めは理を説《と》いて説き伏せたところが、あとはまるで形《かた》なしのことをやり出した。
 それでやはり女のことを考えてみています。

         九

 机の家に盗難のあったその翌朝のことです。沢井から三里離れた青梅の町の裏宿《うらじゅく》の尋常の百姓家の中で、
「おじさん、昨夜《ゆうべ》はどこへ行ったの」
 炉の火を火箸《ひばし》で掻《か》きながら、真黒な鍋で何か煮ていた女の子、これは先日、大菩薩峠で救われた巡礼の少女でありましたが、おじさんと呼ばれた人はまだ寝床の中に横たわっていたが、ひょいと首をもたげて、
「ナニ、どこへも行きはしないよ」
 その面《かお》を見れば、これはかの峠で火を焚《た》いて猿を逐《お》い、この巡礼の少女を助けた旅の人でありました。
「でも夜中に目がさめると、おじさんの姿が見えなかったものを」
 こう言われて主人は横を向いて、
「ああそれは、雨が降ると困るので裏の山から薪《たきぎ》を運んでおいたのだ」
「そう」
と言って少女は得心《とくしん》したが、
「おじさん、それでは今日お江戸へつれて行って下さるの」
 たずねてみたが、直ぐに返事がないので、せがんでは悪かろうと思うたのか、そのままにして仏壇の方にふいと目がつくと、
「お線香をモ一本上げましょう」
 たったいま上げた線香が長く煙を引いているのに、また新しい線香に火をつけて、口の中で念仏を唱《とな》え、
「お爺《じい》さん、わたしが大きくなったらば、きっと仇《かたき》を討ちますからね」
 独言《ひとりごと》を言っている間に眼が曇ってくる。寝床の中で一ぷくつけていた主人はそれを見とがめて、
「お松坊、ちょっとここへおいで」
 女の子は横を向いて、そっと眼の縁《ふち》を払い、
「はい」
 主人の前に跪《かしこ》まると、
「おまえは口癖に敵々《かたきかたき》というが、それはいけないよ、敵討《かたきうち》ということは侍《さむらい》の子のすることで、お前なんぞは念仏をしてお爺さんの後生《ごしょう》を願っておればよいのだ」
「でもおじさん、あんまり口惜《くや》しいもの」
 また横を向いて、溢《あふ》るる涙を払います。
「口惜しい口惜しいがお爺さんの後生の障《さわ》りになるといけない。あ、それはそうと、お前を今日はお江戸へつれて行くはずであったが、私は少し怪我《けが》をしてな」
「エッ、怪我を!」
「ナニ、大した事じゃねえ、昨夜《ゆうべ》それ、薪を運ぶとって転《ころ》んで腰を木の根にぶっつけたのだよ、二日もしたら癒《なお》るだろう、江戸行きはもう少し延ばしておくれ」

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