にしていると、土方が取り直した太刀は矢の如く、巌《いわ》も透《とお》れと貫いた――が、やっぱり手答えもなんにもない。
 と見れば、太刀を振りかぶっていた黒の一人は、何に驚いてか、
「あっ!」
と叫んで柳の葉の落つるように太刀を振捨てて、身は屏風《びょうぶ》を倒すように雪の中にのめ[#「のめ」に傍点]ってしまいました。
 土方をはじめ一団がこれはと驚くときは遅く、北の方にめぐらされた寺の垣根を後ろにとって、下緒《さげお》は早くも襷《たすき》に結ばれ、太刀の構えは平青眼《ひらせいがん》。
「無礼をするな、拙者は御徒町《おかちまち》の島田虎之助じゃ、果《はた》し合《あ》いならば時を告げて来《きた》れ、恨みがあらばその由《よし》を言え」
「しまった!」
 思わず叫び出でたのは土方歳三です。
 藪《やぶ》を突いて蛇ではなく、駕籠を突いて虎を出してしまった。
 これより先、清川八郎は、丸の内の杉山邸を出づる時、取違えて島田の駕籠に乗って出てしまったので、島田は清川の駕籠で帰ることになったのです。
 至極《しごく》の達人には、おのずから神《しん》に通ずるところのものがある。この途中、島田虎之助はフト怪しい気配《けはい》に打たれたので、もとより新徴組がかく精鋭を尽して来ようとは思わなかったが、心得ある乗り方で乗物の背後にヒタと背をつけて前を貫く刀に備え、待てと土方の声がかかった時分には、既に刀の下緒は襷に綾《あや》どられ、愛刀志津三郎の目釘《めくぎ》は湿《しめ》されていた。空《くう》を突かした刀の下から同時にサッと居合《いあい》の一太刀で、外に振りかぶって待ち構えていた彼《か》の黒の一人の足を切って飛んで出でたものです。
 これを見て大将の土方歳三が、しまった! と叫んだのも、もとより当《まさ》に然《しか》るべきところで、人違いの失策もあろうが、島田虎之助がそのころ一流の剣法であったことを知らないはずはない。
 しかしながら新徴組に集まるほどの者で、名を聞いたばかりで聞怖《ききお》じするような者は一人もなかったのです。またここまでやりかけて、人違いでしたかそうでしたかと引込むような人間は一人もなかったのです。彼等はみな一流一派に傑出した者共で、無事に苦しんでその腕の悪血《あくち》が取りたさにこの団体に入ったくらいでしたから、人違いなどは大した問題ではなく、むしろ剣法において当代一の極《きわ》め付《つき》の島田虎之助を突き出したことを勿怪《もっけ》の幸いと感じたくらいのものであります。
 その中にも、岡田弥市と共に後詰《ごづめ》の役を引受けた机竜之助は、またしても思いがけず島田虎之助と聞いて、親の敵《かたき》に出会ったように肉がブリブリと動きます。彼はやや離れた物蔭に、島田の構えをじっと睨んで立っている。
 なんにしても人違いは人違いに相違ない、先方の名乗りを受けて土方は何と言うか。
「殺《や》れ!」
 土方歳三は退引《のっぴき》ならぬ決断で火蓋を切ったものです。
「エイ!」
 銀山鉄壁を裂く響、山谷《さんこく》に答え心魂《しんこん》に徹して、なんとも形容のできないすさまじき気合ともろとも、夜の如く静かであった島田虎之助は、颶風《ぐふう》の如く飛ぶよと見れば、ただ一太刀で、僅かに一歩を踏み出した新徴組の水島某は肩先より、雪を血に染めて魂《たましい》は浄土へ飛ぶ。
 島田虎之助は水島を切って落して、飛び抜けて彼方《かなた》の立木を後ろに平青眼。
 げに夜深《よふか》くして猛虎の声に山月の高き島田の気合に、さしも新徴組の荒武者が五体ピリピリと麻痺《まひ》します。
 と見れば、大塚某は片手を打ち落されて折重なって雪に斃《たお》るる時、島田の身は再びもとの塀《へい》を後ろに平青眼、ほとんど瞬《またた》きをする間に剛の者二人を斬って捨てたのです。

 島田虎之助は剣禅一致の妙諦《みょうてい》に参じ得た人です。もと豊前《ぶぜん》中津の人。若い時は気が荒く、ややもすれば人を凌辱《りょうじょく》し軽佻《けいちょう》と思われるくらいでしたが、剣の筋は天性で、二十歳の頃はすでに免許に達していたということであります。
 藩を浪人して諸国を修行し、武術に限ることはなく、およそ一芸一道に秀《ひい》でた者は洩《も》れなく訪ねて練り上げたもので、流儀の根本は直心陰《じきしんかげ》です。
 その後、剣道の至り尽せぬところに禅機の存することを覚《さと》って、それから品川の或る禅宗寺《ぜんしゅうでら》へ参禅しはじめたのが三十歳前後のことであったと申します。それから五年の間、一日も欠かすことなく、気息を調え丹田《たんでん》を練り、ついに大事を畢了《ひつりょう》しました。
 参禅以後は人間が一変したということで、以前の軽佻粗暴はその面影《おもかげ》もなく、おのずから至人《しじん》の妙
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