、術よりは気を以て勝つ。
 土方歳三はこれに比べると陰忍の男である。落着いていたが荒《あば》れる時は近藤以上に荒れる。怨みはよく覚えていて、根に持っていつまでも忘れない。近藤は御《ぎょ》し易《やす》し土方は御し難《がた》しと有司《ゆうし》も怖れていた。隊長の芹沢は性質がことに僻《ねじ》けていた。後に京都で近藤勇に殺される。芹沢死して後の新徴組は、近藤勇を隊長として改めて「新撰組」となる。それは後の話。

 雪はチラチラと降りつづき、夜は四ツ過ぎて、風がないからわりあいに寒くはないようなものの、時節柄ですから人通りなどはほとんどありません。
 練塀小路《ねりべいこうじ》あたりで按摩《あんま》の笛、駿河台《するがだい》の方でびょうびょうと犬が吠える。物の音はそのくらいのもので、そこへ二|挺《ちょう》の駕籠が前後して神田昌平橋にさしかかる。
 前の駕籠側《かごわき》には一人の供が槍を担《かつ》いでついている、後ろの提灯《ちょうちん》の紋は抱茗荷《だきみょうが》。
 二つの駕籠が雪の昌平橋を無事に渡りきると、棒鼻《ぼうばな》の向きが少し変って、前のは講武所の方へ向き、同時に駕籠の中から何か声高に言うのが聞えると、それに応じて後ろなる駕籠の中からも、前のよりは少し低い調子で一言二言《ひとことふたこと》言い出すのが聞えます。
 そこで二つの駕籠は別れて、前のは槍を持たせたまま、講武所から聖堂の方を指して行く。後ろなる抱茗荷のは、そのまま一直線に外神田から上野の方面をさして進んで行きます。
 その時、昌平橋のこっちに海坊主の寄合《よりあい》のようにかたまって、その乗物にちっとも眼を離さなかった連中が、今や前後の乗物が別れたと見るとスーッと爪先立《つまさきだ》って橋を渡り、太刀の柄《つか》を握り締めた十余人は、いわずともかの土方歳三を大将とする新徴組の一団です。
 かの槍を持たせて講武所から聖堂の方へ別れた乗物は、疑いもなく高橋伊勢守で、高橋の邸は牛込|神楽坂《かぐらざか》で、邸内には名代《なだい》の大楠《おおくすのき》があって俗に楠のお屋敷という、それへ帰るものに相違ないのです。案の如く高橋をイナすことができて、めざす清川八郎ただ一人。新徴組の壮士は刀の鯉口《こいぐち》を切って駕籠をめがけて一時に飛びかかろうとするのを、土方は、
「叱《しっ》!」
と制する。大将の許しがないので、腕は鳴り刀は鞘《さや》を走ろうとするのを抑えて、土方を先に十余人が乗物のあとをついて、五軒町、末広町と過ぎて広小路へかかろうとするが、土方はまだ斬れとも蒐《かか》れとも言いません。
 こんなことを知ろうはずのない清川の乗物は、ずっと上野の山下へ入って行きます。
「町家《ちょうか》を避けて山へ追い込み、そこで充分に仕遂《しと》げるつもりだな」
 こう思って各々《めいめい》は同じく山下へ入り込んで行きましたが、究竟《くっきょう》と思う木蔭《こかげ》山蔭《やまかげ》をも無事に通り抜けさして、ついに鶯谷《うぐいすだに》、新坂《しんざか》の下まで乗物を送って来てしまいました。
 何のことだ、ここを過ぐれば山は尽きる。

         三十

 新坂から鶯谷へかかる所、後ろはものすごい上野の森、離れては根岸から浅草へわたり、寺院や武家屋敷の屋根が所まばらに見えるくらいのものです。
 清川八郎を乗せた駕籠がいよいよ新坂下の原までかかった時に、雪は降ることが大分薄くなって、おりから月のあるべき夜でしたから空はいちじるしく明るく見えました。
「その駕籠、待て!」
 今まで息を殺していた土方歳三が大喝一声《だいかついっせい》、自《みずか》ら颯《さっ》と太刀を引き抜くと、蝗《いなご》の如く十余人抜きつれて乗物を囲む。
 駕籠舁《かごかき》はそれと見て立ちすくみ、
「誰だ、誰だいッ、ふ、ふざけたまねをするない」
 振舞酒《ふるまいざけ》の余勢で巻舌《まきじた》をつかってみましたが、からきり物になりません。提灯を切り落されると地面に突伏《つっぷ》して、
「御免、お助け、命」
「行け!」
 ほしいままに駕籠舁|風情《ふぜい》の命を取ることを好まなかった。こけつ転《まろ》びつ彼等が上野の山蔭に逃げて行くに任せて、さて十五人の刃《やいば》は一つの乗物に向う。
 駕籠の中はヒッソリして、ほとんど血の通う人の気《け》はあるまじき様子です。眠っていたならば覚めねばならぬ、覚めていたならば起きねばならぬ。
「出ろ!」
 呼ばわってみましたけれども、相も変らずヒッソリとしたものです。土方歳三は一人の黒と頷《うなず》き合うと、スーッと左の方から進み寄って太刀を取り直す。
 同時に、いま頷き合った黒の一人は、右の駕籠|側《わき》に廻って太刀を振りかぶる。
 残る十余人はやや退いて、透間《すきま》もなく遠巻き
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