なみと酒を注《つ》いで、
「待て、後ろなるはめざす清川八郎、前なるは何者じゃ」
一隅《いちぐう》から吼《ほ》え出したのは、新徴組の副将で、鬼と言われた近藤勇《こんどういさみ》。
「おお、それでござるが」
斥候《ものみ》から帰って来た武士は近藤の方へ向いて、
「それはたしかに高橋|伊勢守《いせのかみ》」
「ナニ、高橋!」
一座が面《かお》を見合せる。
高橋伊勢守は後の泥舟翁《でいしゅうおう》、槍《やり》を取っては当時|海内《かいだい》の随一人《ずいいちにん》。
その頃、丸の内の杉山左京という旗本の邸に、月二三回ぐらいずつ毛色の変った人々が集まって、四方山《よもやま》の話をする会があった。集まる人は高橋伊勢守、山岡鉄太郎、石坂周造、安積《あづみ》五郎、清川八郎、金子与三郎、それに島田虎之助の面々で、幕臣もあれば勤王家もある、大した人数ではなかったけれど、この会合は新徴組からヒドクめざされていました。ことに清川八郎こそ奇怪《きっかい》なれ、彼はいったん新徴組の幹部となった身でありながら、蔭には勤王方に心を運ぶ二股者《ふたまたもの》、まず清川を斬れとその計画がいま熟しつつあるので、昼のうちより杉山邸へ放った斥候《ものみ》が、いま上々首尾の報告を齎《もたら》したわけです。
「高橋何者ぞ、彼ももろともに叩き斬れ」
隊長芹沢の気色《けしき》ははげしい。
「伊勢守は幕府の重臣じゃ」
口を挿《はさ》んだのは近藤勇とは同郷、武州多摩郡石田村の人|土方歳三《ひじかたとしぞう》。
「幕臣でありながら浮浪者《ふろうもの》と往来する高橋伊勢め、幸いの折だ、清川もろともに叩き斬るがよい、それとも従五位《じゅごい》の槍が怖《こわ》いかな」
芹沢はこういって近藤、土方の面を意地悪く見廻すと、勃然《むっ》としたのが近藤勇です。愛するところの抜けば必ず人を斬るという虎徹《こてつ》の一刀を引き寄せて、
「近藤勇が虎徹ここにあり、高橋伊勢、槍を取っての鬼神なりともなんの怖るるところ」
昂然《こうぜん》たる意気を示して芹沢を睨め返す。
「待て待て」
土方歳三は徒《いたず》らに気の立つ芹沢と近藤とを和《なだ》めて、
「今夜めざすは清川一人、余人《よにん》を突っついて無駄の骨折りするも面白からず、二人の駕籠が離るるまで待って、やすやすと清川の首を挙ぐるが労少なくして功が多い、いかがでござるな」
「うむ――」
芹沢も近藤も一座も僅かに頷《うなず》いて土方を見る。
「これより見え隠れに二人が駕籠の跡を追い、高橋が乗物の離れたる折を見て清川を血祭りにする、もしその折を得ずば二人もろとも」
「よし、それも一策じゃ、しからばこの仕事の采配《さいはい》を土方氏、貴殿に願おうか」
芹沢にいわれて土方歳三は言下《げんか》に引受け、
「承知致した、貴殿ならびに近藤氏はこれに待ち給え、仕留《しと》めて参る」
「総勢十三人、よいか」
「よし」
このとき近藤勇は、ふと一座の一隅《いちぐう》を振返って、
「吉田、吉田氏」
少し酔うてさきほどから眠っていたらしい一人を呼びかけて、押しゆすると、むっくり起きてまばゆき眼を見開いたのは机竜之助でした。
机竜之助は近藤、土方らとは同国のよしみで、しばらく新徴組に姿を隠しております。呼び醒《さま》されて、
「眠り過ごした」
刀を取って一座の方へ進み寄ると、土方歳三が、
「吉田氏、いずれもかくの通り用意が整うた」
「ほう、拙者も仕度《したく》を致そう」
竜之助は、身ごしらえ、足ごしらえ、黒い頭巾《ずきん》を取って被《かぶ》ろうとしながら、
「相手は清川一人か」
「さいぜんも申す通り、別に苦手《にがて》が一人」
「苦手とは?」
「槍の高橋伊勢守が同行」
「さらば二人もろとも殺《や》るか」
「いや、めざすは清川一人なれども、罷《まか》り違《ちが》えば高橋もろとも」
「うむ」
竜之助は土方の面《かお》と岡田の面とを等分に見比《みくら》べながら、
「もし高橋を相手に取る時のその手筈《てはず》は?」
「拙者はおのおのと直《ただ》ちに清川に向い申さん、高橋|邪魔立《じゃまだ》て致さば吉田氏、貴殿と岡田氏とにて」
「心得た」
土方は手勢《てぜい》をまとめて清川に向い、まんいち高橋その他の邪魔立てもあらば、机竜之助と岡田弥市とがこれに当るという手筈《てはず》をここにきめました。
新徴組は野武士の集団である。野《や》にあって腕のムズ痒《がゆ》さに堪えぬ者共《ものども》を幕府が召し集めて、最も好むところの腕立てに任せる役目ですから、毒を以て毒を制すると謂《いい》つべきものです。
近藤勇は野猪《やちょ》のような男である。感情に走りやすく、意気に殉《じゅん》じやすい代りに、事がわかれば敵も味方もなくカラリと霽《は》れる、その剣の荒いこと無類
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