はずいぶん立派な体格ねえ」
「ええ、大《でか》くばかりあってこの世の穀《ごく》つぶしみたようなものでございます」
「その身体《からだ》では力もありましょうね」
「力ならたいがいの人に負けましねえ」
無邪気なる自負の色を浮ばせて、
「力ずくなら誰にも負けねえけれど、昨晩《ゆうべ》の泥棒みたようなすばしっこい奴には敵《かな》わねえ、幽霊みたようだ、そこにいたかと思うとスーッと消えてしまうだ、あんな泥棒はつかめえどころがねえでがすから力ずくにゃいかねえ、それでとうとう取逃がしてしまった」
与八、少々残念らしく見えます。
みどりのためには昨夜の泥棒は、虎口《ここう》を救うてくれた恩人であります。この与八があの時、泥棒! と叫んでくれたればこそ、おかげで恥かしい目をのがれたものです。みどりはそれとは言わずに、話を別の方へ持って行って、
「あの、与八さん、お前のお国はどちら」
与八は羊羹を頬《ほお》ばった口をゆがめて、
「俺《おら》が生れ土地はどこだか知らねえ」
「ホホ、生れ土地を知らないの」
「俺、棄児《すてご》だからな、物心《ものごころ》を知らねえうちに打棄《うっちゃ》られただから、どこで生れたか知らねえ」
「まあ、お前さんは棄児……」
「そうだあ、青梅街道というところへ打棄られて、人に拾われて育っただから、生れ土地は知りましねえ」
「かわいそうに。そうして、育てられたのは?」
「それはね、この玉川上水を二十里も上《かみ》へのぼると沢井という所がありまさあ、その沢井の机弾正という先生に拾われて育ててもらったでがす」
「それでは多摩川の上《かみ》の方。わたしも子供の時分、あのへんを通ったことがありました」
「そうかね、あの街道は甲州の大菩薩峠というのへ抜ける街道だ」
「大菩薩峠……」
「大菩薩峠というのは上り下りが六里からあるで、難渋《なんじゅう》な道だ」
「ああ、そうでござんす、あの大菩薩には猿がたんといて、峠の頂上には観音様のお堂がありましたなあ」
「お前様《めいさま》よく知ってござるが、あの峠を越したことがおありなさるのかえ」
「エエ、四五年前に」
「四五年前……それではやっぱり俺《おら》があの水車小屋にいた時分だ」
「与八さん、いつか一度あの大菩薩峠へ、わたしをつれて行って下さいな」
「あんな山奥へかい」
「わたしは、モ一ぺんあの峠へ行ってみたい」
「俺もお前様、ほんとうの話は、この頃こちらで奉公をしているけれども、やっぱり昔の山ん中がいいと思うからお邸を暇《ひま》を貰い申して帰るべえかと思ってるところでがす」
「まあお前、奉公が飽きたの」
「ああ、厭《いや》になっちまった、俺《おら》がには水車番が性《しょう》に合ってるだあ」
「そんなことは言わないで、いつまでも一緒に御奉公をしていておくれ、そして帰る時には、わたしを大菩薩峠まで連れて行って下さい」
みどりの眼には涙が宿ります。与八はしばらく考えていましたが、
「お前様にそう言われると、俺もなんだかお前様を残してこのお邸を出かけるのが気がかりになるだ」
与八は、みどりのために蔭《かげ》になり日向《ひなた》になって力を添え、みどりは与八与八と唯一《ゆいつ》の頼みにして、二人は兄妹《きょうだい》のように親しみを加えてゆきます。
幸いにしてその後、みどりの身の上には格別の危《あぶ》ないこともなく、ほかの侍女《こしもと》どもが主人の寵《ちょう》を専《もっぱ》らにしておりますので、引込みがちで隠れた仕事をのみして日を送っておりました。
二十九
「新徴組《しんちょうぐみ》」という壮士の団体は、徳川のために諸藩の注意人物を抑《おさ》える機関でありました。まず江戸市中に入り込む志士或いは浮浪の徒を捕縛し、手剛《てごわ》いのは暗殺する、これが「新徴組」の役目であります。
神田柳原の金子という同志の家の一間で、凄《すご》い目つきをした十余人の新徴組が、朝から寄り集まってはささやき合い、一人出て行き、二人出て行き、また一人戻り二人戻り、何か打合せをしている。十一月の末で、今日はよほど寒い、天も朝からどんより[#「どんより」に傍点]としていたが、夕方からははたして粉のような雪が降りはじめました。
寛永寺の暮六《くれむ》ツが鳴ると、最後に出かけた一人が立帰って、
「隊長、首尾は上々じゃ」
「それは大儀」
隊長と呼ばれたのは水戸の人、芹沢鴨《せりざわかも》。
「杉山左京が邸を乗り出した駕籠《かご》が二|挺《ちょう》、その後ろのがまさしく清川八郎」
「確《しか》と?」
「相違ない、拙者は武兵衛《ぶへえ》にあとを頼んでおいた、急ぎ用意あって然《しか》るべし」
「心得たり」
十余人が躍《おど》り立って用意の黒装束《くろしょうぞく》。
一方には大盃《たいはい》になみ
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