村は手を伸べて、太田という隣席の札を一枚とんと指の先で刎《は》ね上げました。一枚とられた太田は何のためか、締めていた帯を解いてポンと向うへ投げ出す。
 みどりが呆《あき》れている間に、
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夜をこめて……
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 眼も少々|上《うわ》ずっていた高萩が頓狂《とんきょう》な声を出して、
「ありました」
 身を躍《おど》り出して押えたのが、みどりの前の札でした。
「さあ、みどりさん」
 みんなの眼がみどりの方に向く。左右の二人は、
「帯をお取りなさい」
 みどりの帯へ手をかける。
「まあ、何をなさいます」
「そんなに驚くことはない、これは竹の子勝負というて、一枚とられたら一枚ぬぐというきまり、それで最初には帯から……」
 みどりは驚いてしまって、その手を振り払おうとする間に、かえってこんなのを面白がる連中は、寄ってたかって無残《むざん》にもみどりの帯を解いて、あちらに投げ出す。
 みどりは身も世にあられぬあさましさを感じてポーッとしていると、
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春の夜の……
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「ありました」
 花野は高萩の前にあったのを横の方にポンと飛ばし、
「みどりさんの仇《あだ》を討ちました」
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夕されば……
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「しめた!」
 最初にやられた太田が飛び出したのは、運悪くまたしてもみどりの前でした。
「やれお気の毒な、いざ一皮《ひとかわ》むき給え」
 寄って来て、みどりの上着《うわぎ》に手をかける。
「どうぞ御免あそばして」
 必死にいやがるを、けっく一倍おもしろがる。
「みどり、そんなにむずかるものではない、ほんの座興じゃ」
 上着を剥《は》がるれば下は間着《あいぎ》。
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もろともに……
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「ありました」
 またしても意地の悪い高萩は、みどりの弱味をつけ込んで覘《ねら》っていた図が当る。
「みどりさん、かさねがさねお気の毒」
 間着を脱げば下は襦袢《じゅばん》。
「どうぞ御免あそばして」
 みどりは腕を組んで固くそこに突伏《つっぷ》してしまいました。
「何という騒ぎだ」
 水汲みに出た与八は、手桶を井戸側に置いて、奥庭の彼方に見える広間の障子に入り乱れた影法師を見ながら突立っていると、庭の石燈籠の蔭で、人らしいものの形が動く。
「はて誰だんべえ、あんなところに人のいるはずがねえ」
 与八はつるべ縄へ掛けた手を休めて見ていると、その人の影は泉水《せんすい》の池のほとりから奥殿の廊下の方へと進んで行きます。泥棒《どろぼう》だ、泥棒に違えねえ、
「泥棒!」
 与八が大きな声で叫ぶと、その声は外なる怪《あや》しの男よりも、家の中の大一座を驚かして、障子を蹴開《けひら》いて廊下へ走り出でます。

         二十八

 その翌日の朝、与八は竹箒《たけぼうき》で庭を掃いていますと、ほかの女中は昨夜の疲れで寝ているのに、みどりの部屋のみは障子があいて、もう起きているようです、それとも夜通し寝なかったものか。
 それとは知らずに掃いて来た与八は、
「これは、みどり様、お早うございます」
 箒の手を休めて、頬冠《ほおかぶ》りをちょいと外《はず》してお辞儀《じぎ》をする。
「与八さん、たいそう早く御精《ごせい》が出ますね」
「エエ、どう致しまして。わしらあ別に早いこともありましねえが、お前様《めいさま》こそエラク早起きで」
「昨夜《ゆうべ》は御苦労でしたねえ。まあ少し、ここでお休み」
 みどりは障子をあけて親切に与八を労《いた》わり、
「お茶を一つおあがり」
 茶と菓子とを縁側のところへ持って出ます。
「こりゃどうも恐れ入ります」
 与八は大悦《おおよろこ》びで、
「お前様はいつも、わしらにそんなに親切をして下さるから有難えと思います、ほんとに済みましねえ」
 悦びながら相当に遠慮をしているのを、
「さあそこへお掛け。与八さん、わたしはお前さんにお礼を言わねばなりませぬ」
「なんの、お前様にお礼を言われるようなことをすべえ、行届かねえ田舎者《いなかもの》ですから、面倒《めんどう》を見てやっておくんなさいまし」
 与八は頬冠りを取って手拭を鷲《わし》づかみにして、しきりにお辞儀をしています。
「お茶がはいりました、遠慮をしないで」
「はい、どうも済みましねえでございます」
 与八は、やっとのことで縁側へ腰をかけ、無器用《ぶきよう》な手つきをして、恐る恐る茶碗を取り上げておしいただきます。
「甘いものはお好きかえ、ここに羊羹《ようかん》があります」
「どうも済みましねえ、こんな結構なお菓子をいただいてどうも済みましねえ」
 与八は片手に茶碗、片手に羊羹をいただいて、幾度もお礼を繰返す。
「与八さん、お前
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