か。帰ったところで大先生がいねえことにゃつまらねえな」
 与八の独言はここで一段落になって、あとがしばらくひっそり[#「ひっそり」に傍点]と――ぷしぷしと火の燃える音のみが聞えます。
 おりから、本邸の方でどっと人の笑う声、それも一人二人ではなく、男の声に金《かね》を切るような女の声が交《まじ》って騒がしい。
「ああまた始まった、ここのお邸はまるで化物屋敷《ばけものやしき》だ」
 与八は苦《にが》り切っていると、引続いてキャッキャッとひっくり返るような女の笑い声。
「侍たちも侍たちだが女中たちも女中たちだ、女の子にお邸奉公なんぞさせるもんでねえ、ああしてみんな自堕落《じだらく》になっちまう……ついこの間も、若いお女中が入って来なすったが、いじらしいことだ、あんなしおらしい女の子もやがて滅茶滅茶に摺《す》れからしちまうだんべえ」
 この時またもひとしきり男女の噪《さわ》ぎ返る声、ドーッと笑い崩れてまたひっそりとしてしまいました。
「どれ、水でもちっと汲んどくべえ」
 与八は手桶《ておけ》をさげて井戸端へ出かけます。
 主人の神尾主膳《かみおしゅぜん》というのは三十越したばかりで、父が死んでの後はいい気になって、旗本の次男三男という始末の悪いやくざ者を集めて来ては、己《おの》が家を倶楽部《くらぶ》にしてさんざんの振舞《ふるまい》ですが、今宵《こよい》も八人の道楽仲間を呼び集めて、これに七人の女中が総出《そうで》で広間を昼のように明るくし、
「これより竹の子勝負」
と聞いて女中たちは面《かお》見合せ、
「まあいやな」
 眉をしかめていぶかしげな笑い方をする。
「さあ円くなれ、おのおの方、組を合せ給え、読みは拙者がする」
 侍どもと女中たちは夜会の席のような具合に一人ずつ席割《せきわり》をして円く組み合いましたが、女中どもはこんなことに慣れきっていると見えて恥かしがりもせず。
「ああつまらん、身共《みども》ばかりは独り者」
 投げ出すように言い出したのは、芳村《よしむら》という若い侍。
「おおこれは、芳村氏が男やもめ、笑止《しょうし》」
 すべての人が奇数であったために男やもめがひとり出来てしまったのを、主人は膝《ひざ》を打って、
「みどり[#「みどり」に傍点]が見えぬ、みどりを呼べ」
 みどりとは、三日前にこの屋敷へ見習奉公に来たお松のことです。
「みどりさん、みどりさん」
 高萩と花野と、もひとり月江という女中が都合《つごう》三人で、お松のみどりの部屋へ駈け込んで来て、
「殿様のお召しでござりまする、直ぐにいらっしゃい」
「はい……」
「ただいま百人一首が始まったところ」
「あの、せっかくではございますが気分がすぐれませぬ故」
「気分がお悪いとや。些細《ささい》な不快はあの面白い遊びで癒《なお》ってしまいまする、さあさあ早く」
「それでも、わたくしには歌が取れませぬ」
「なんのまあ、お前様ほどの物識《ものし》りが」
「いいえ、まだ百人一首の取り方も存じませぬ、左様《さよう》なお席へ出ましては、かえって失礼に存じまする故」
 女中たちは左右から、みどりの手を取り抱き上げんばかりにして、
「殿様のお言いつけでござりまするぞ、そのような我儘《わがまま》は通りませぬ」
 一人が言えば、
「ほんに、みどりさん、お前はいつもいつもこのような折は、不快じゃの不調法《ぶちょうほう》じゃの言いくるめて引込んでばかり。今日は許しませぬ」
 花野は躍起《やっき》になって、みどりの手を引張りながら、
「あれ、あのように殿様のお声が聞えまする、早うせぬとあとでどのようなお叱《しか》りに会うことやら」
 みどりはどうにも已《や》むを得ません、三人に引きずられるようにして広間へ来て見ると、形《かた》のような有様で。
「やあ、みどり見えたか、芳村殿の右へ坐れ、そちも勝負に加わるのじゃ」
 主人はこう命令すると、女中どもはみどりを芳村の隣席へ押据える。
「みどり殿、遠慮してはいけない、さあ、この札をよく見て、それから自分の前へ斯様《かよう》なあんばいに並べてお置きなされ、よいか、あれにて神尾殿が読み上げたなら、遠慮なく拾い取り候《そうら》え」
 芳村はそう言いながら札を取って、みどりの前に並べてくれます。
「わたくし、まだ札の取り方も一向《いっこう》に存じませぬ」
「いいや、むつかしいことはない、自分の前だけ守っておれば仔細《しさい》はない、その代り、自分の前を人に拾われたら一大事じゃ」
 みどりは百人一首の歌だけは覚えておりますけれど、こんなふうに札の取り合いをしたことがないので、ただもじもじしていると、
「よろしいか、はじめるぞよ」
 主膳は咳払《せきばら》いして席を見廻し、
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あらざらむ……
[#ここで字下げ終わり]
「しめた!」
 芳
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