っておいでのようでしたから……」
「可愛ゆい若衆《わかしゅ》でしたね」
お松はこう言われて、何のわけもなく真赤になりました。
お松は大菩薩峠で七兵衛に助けられたお松。それを前に呼び寄せて話しているのは、七兵衛の手からお松を預かった切髪《きりがみ》の年増《としま》でありました。
「それはそうと、明日はお邸へ上らなくてはなりませぬ」
「はい」
「お邸へ上りましたなら、かねて申してある通り、わたしに代って辛抱《しんぼう》して、殿様のお気に入るようにして下さい」
「わたしのような慣れないものが、お気に入るようになられましょうやら、それが心配でございます」
「殿様はお酒をおあがりなさるとお気が荒いけれど、平生《へいぜい》は親切なお方だから、御機嫌《ごきげん》の取りにくいことはありませぬ」
「お手荒《てあら》なことをなさることはございますまいか」
「まあそんなことがあっても、和《やわ》らかにとりなすのが御奉公と申すもの」
「それでも、かよわいわたくし風情《ふぜい》の力で殿様の御機嫌が直りませぬ時は……」
お松が心配そうに言うのを切髪の婦人は笑って打消し、
「なにも殿様が、きっと手荒いことをなさるときまったわけではなし、また朋輩《ほうばい》もたくさんあることだから……朋輩といえばお松や、殿様や家来方の御機嫌よりも朋輩同士の仲が小面倒《こめんどう》なのよ、よく気をつけないと嫉《ねた》まれたり憎《にく》まれたり――」
「わたしはそれも心配でございます」
「お殿様にもお気に入り、朋輩衆にも嫉まれず、それが女の腕というもの。まあ初陣《ういじん》と思うて乗り込んでごらん」
「お師匠様の御恩報じのつもりで、きっと勤めまする覚悟」
お松の頼もしい言葉は、お師匠様と呼ばれた切髪の婦人の心を非常に満足せしめたようでありましたが、やや小声になって、
「それにねお松や、お前が女中衆のうちでいちばん年も若いしするから、何でもまず殿様を丸めてしまわなくては……ホホホ、丸めるというと恐れ多いけれど、やっぱり何とかして殿様をこっちのものにするのさ、ね、おわかりかえ」
「まあ、わたしにそんなことが――」
耳まで真赤にしてお松が俯向《うつむ》くのを、
「ホントにお前はまだ子供で困ります」
お松がここで行けと言われている家は、四谷の伝馬町《てんまちょう》の神尾という三千石の旗本《はたもと》であります。この切髪の婦人というのは先殿様《せんとのさま》の妾《めかけ》であったので、殿様が亡《な》くなって殊勝《しゅしょう》らしく髪を切って、仮りに花の師匠となり、弟子というものもさっぱりないけれども、先代からの扶持《ふち》やその他で裕福《ゆうふく》に暮らし、院号やなにかで通るよりも本名のお絹が当人の柄に合います。
神尾の邸の中では、旗本の放蕩息子《ほうとうむすこ》らが日夜|入《い》りびたりで賭博《とばく》に耽《ふけ》ると言い、十人も綺麗《きれい》な女中がいて、それやこれやの聞きにくい噂《うわさ》があります。お松はこれから、恩義の枷《かせ》でその中へ送られて行かねばならぬ。言いようのない辛《つら》さ。こんな時に兄弟でもあったらと思うにつけて、雨宿りした兵馬の面影《おもかげ》、かりそめの縁ながら、目先にちらついて忘るることができません。
兵馬もまたこの家を出でてから、なんとなくかの少女が可憐《かれん》に思われて、その後もしばしばこの家の前を通りかかったことはありましたけれど、その折の少女の姿は再びそこに現われることがありませんでした。
二十七
それから一カ月ばかり後のことで、もう秋の夜長のさびしさがうっすら身に沁《し》みる頃、伝馬町の神尾の邸の湯殿に火を焚《た》いている大男があります。それは水車番の与八でした。例の独言《ひとりごと》を聞いていると、与八がどうしてこの邸へ来たかがわかります。
「大先生《おおせんせい》がおなくなりなすって俺《おら》はつまらなくなったから、お江戸へでも出てみたらと当家様へ御奉公に上ったわけだが、やっぱり水車小屋にいた方が俺が性《しょう》に合ってる、あれほど親類の衆も言って下すっただから水車番をしていればよかったに、俺モウいちど水車小屋へ帰《けえ》るべえか……」
与八は今の境遇よりも水車小屋の昔が懐《なつ》かしいと見えて、
「あのガタンピシンという杵《きね》の音や、ユックリユックリ廻る万力《まんりき》や、前の川をどんどと威勢よく流れる水の音なんぞが、なんぼう好い心持だか。お地蔵様も小屋の中へ押立て申して、あとの人によく信心のう[#「信心のう」に傍点]するように頼んでおいたが、御岳様や貧乏山《びんぼうやま》なんぞも紅くなりはじめたことだんべえ。俺が水車にいると、よく前の川へ鹿の野郎が水飲みに来たっけ。モ一ぺん水車小屋へ帰るべえ
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