筑後|梁川《やながわ》の藩に大石進という者がある。性質愚に近いほどの鈍根《どんこん》で、試合に出ては必ず負ける。後輩年下の者にさえさんざんに打ち込まれる。そのたびごとに笑われ嘲《あざけ》られる。或る時、非常なる辱《はずかし》めに会ってから、さすがの鈍物《どんぶつ》も藩の道場に姿を見せなくなった。それより門を杜《と》じて、天井より糸で毬《まり》をつるし、それを突くこと三年間、ついに天下無敵の突きの一手を発明してしまった。再び道場に現われた時は藩中はおろか、天下その突きの前に立ち得るものがない。(島田虎之助に、男谷下総守《おたにしもうさのかみ》、それにこの大石進を加えて当時天下の三剣客という。)
島田先生からこの話を聞いた兵馬は、同じ方法と同じ熱心を以て突きの手を工夫し、今や同じような成功を見るに至ったわけです。
兵馬がそれとは知らずに机竜之助と竹刀を合せてから、ほぼ一カ月余りのことで、夏の日盛りを御徒町の道場から牛込のある友人のもとへ試合に行こうと、空模様が険呑《けんのん》であったのに、道具を肩にして出かけると、はたして御成《おなり》街道から五軒町の裏を妻恋坂《つまこいざか》にのぼりかけた時分に、夕立の空からポツリポツリ。
どこか雨宿りをと坂を上りつめた時分には、一天|墨《すみ》の如く、ガラス玉のようなのが矢を射るように落ちて来ます。
「ここで暫《しば》しの雨やどり」
兵馬は、とある家の門側《かどわき》に彳《たたず》み、空をながめて、雲の走り去り雨の降りおわるのを待っていると、やがて盆を覆《くつがえ》す勢いで風雨が殺到して来ました。
「婆や、早く二階を締めて下さい」
この家《や》の中で若い女の声。
「お松様、引窓の紐が切れてしまいました」
これは婆さんの声。
「それは困ったね、ではわたしが二階を締めるから」
こういって若い女は、あわてて二階へ走《は》せ上って、かいがいしく雨戸を繰りはじめましたが、兵馬はなにげなく二階を見上げますと、いま戸を立てた女は、最後の一枚を残してそこから驟雨《しゅうう》の空と往来とを見ていましたのと、ちょうど両方の間が斜めに向って、見上げても見下ろしても、ぜひ眼のぶっつかる地位でありました。
兵馬は少女を見上げて、何となくはっと心を打たれました。女も兵馬の姿から、しばらく眼を放しませんでしたが、そのうちに戸はピタリと立て切って、兵馬はそれなりまた雨の降る勢いを見て立ちつくしています。
わずかの小門の廂《ひさし》だけに身を寄せたのですから、好いあんばいに風は少し向うへ吹いて行く分のこと、袴《はかま》の裾や衣服の袂《たもと》には沫《しぶき》がしとしととかかります。と、くぐり戸ががらりとあいて、半身と傘の首だけを兵馬の前に突き出したのは以前の婆さんで、
「もし、あなた様、中へ入ってお休みなさいませ」
「はい、有難う存じまする」
「おっつけ晴れましょうから、どうぞ御遠慮なくお入りなさいませ」
「はい……」
兵馬は遠慮して、まだ入り兼ねていると、
「さあ濡《ぬ》れます濡れます、あなた様も濡れます、この婆《ばば》も濡れますほどに」
こういわれて兵馬は、好意を有難く思ってこの家の中へ入りました。
「さあどうぞ、お上りあそばして」
兵馬が中へ一足入れると、障子のところに立っていたのはいま二階からちらと見合った少女、見れば髪も容《かたち》も眼の醒《さ》めるような御守殿風《ごしゅでんふう》に作っておりました。
雨はなかなか歇《や》みそうもなく、風も少しずつ加わってくるようです。再三辞するもきかず一室に招《しょう》ぜられた兵馬は、そこに坐って手持無沙汰《てもちぶさた》に待っていながら、つらつらこの家の有様を見ると、別に男の気配《けはい》も見えないし、茶道具とか花とか風流がかったもののみ並べてありますが、しばらくすると絹ずれの音がさやさやと、
「お客様、御退屈でござりましょう」
さきの女は、しとやかに入って来たので、
「いや別に――」
兵馬は取って附けたような返事。
「もう歇みそうなもの」
「ごゆっくりあそばしませ」
戸外では松の枝が折れたらしい。風雨の容易に止みそうもないのをもどかしがっている兵馬には、この女と差向《さしむか》いのように坐っていることが気が咎《とが》めるようでなりません。
ここはいかなる人の住居《すまい》で、この少女は娘であろうか、それにしてもこの花やかな御守殿風は……とようやく不審にも思われてきましたが、深く推量すべき必要はないことで、雨が霽《は》れてしまうと兵馬は厚く礼を述べて、この家を立ち出でました。
二十六
雨が上って兵馬を帰してから暫《しば》らくたって、
「お松や、さっきの若いお方はお前の知合いなのかい」
「いいえ、雨に降り込められて門前で困
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