境が現われて来たそうです。
 剣を取る時は平青眼《ひらせいがん》にじっとつけて、相手の眼をみつめながらジリリと進む、それに対するといかなる猛者《もさ》も身の毛が竪《た》ったそうであります。ジワリジワリと柔かな剣のうち測り知られぬ力が籠《こも》って、もしも当の相手が不遜《ふそん》な挙動をでも示そうものなら、その柔かな衣が一時に剥落《はくらく》して、鬼神も避け難き太刀先が現われて来るので、みている人すら屏息《へいそく》して手に汗を握るという。おそらくこの人は、その当代随一の剣であったにとどまらず、古今を通じての大名人の一人であったと信じておいてよかろうと思う。

 飛び込んで斬って飛び抜ける、或いは飛び込んで斬られて斃《たお》れる、斯様《かよう》な場合において刀の働きはこの二つよりほかはない。
「エイ!」
 例の気合のかかる時は島田虎之助の身は囲みを破って敵の裏に出でた時で、その時はすでに新徴組の一人二人は斬られているのです。
 敵も人形ではない、命知らずの荒武者にしかも一流の腕を充分に備えた血気盛《けっきざか》りです。それが二太刀と合すことなくズンと斬り落される、あまりといえば果敢《はか》ないことです。
 すでに五人を斬って捨てた島田虎之助は、またかの塀際《へいぎわ》に飛び戻って悠然《ゆうぜん》たる平青眼の構え。
 しかし感心なのは、さすがに新徴組で、眼の前にバタバタと同志が枕を並べて斃《たお》されても、一人として逃げ腰になって崩《くず》れの気勢を示すものがないことです。島田虎之助を虎にたとうれば、これはまさに肉を争う狼の群《むれ》です。
 ひとり机竜之助は、呆然《ぼうぜん》と立ってこの有様を少し離れた物蔭から他事《よそごと》のように見ています。

 島田虎之助と別れた高橋伊勢守は、神楽坂の屋敷へ帰って清川八郎と話しているところへ、この注進が伝わりました。
「はて不思議じゃ、今の世に島田を覘《ねら》う命知らずありとも覚えぬに」
 清川八郎がこの時ハタと膝を打って、
「さあその黒装束の一隊こそまさしく新徴組、これは片時も猶予《ゆうよ》なり難し」
「新徴組なりゃ島田を覘うはずがない、こりゃ人違いじゃな」
「乗物の取違えから、拙者を恨む新徴組の奴輩《やつばら》が、誤って島田先生を襲うたに相違ござらぬ」
 清川は一刻もこうしてはおれぬ。
「人に斬られる島田ではないが……」
と言って高橋伊勢守も静かに立ち上る。
 まもなく楠屋敷の門を、陣笠に馬乗羽織、馬に乗った伊勢守の側《わき》に清川八郎がついて、雪を蹴立てて走り出すと、従五位の槍の槍持《やりもち》がそれに後《おく》れじと飛んで行く。

         三十一

 高橋伊勢守と清川八郎とが馳《は》せつけた時は、新坂下は戦場のような光景で、気合の声は肉を争う猛獣の吼《ほ》ゆるが如く、谷から山に徹《こた》える、雪と泥とは縦横《じゅうおう》に踏みにじられた中に、右に左に折重なって斃《たお》れた人の身体《からだ》が五つ六つは一目に数えられる、血の香いはぷんとして鶯谷に満つるの有様です。
 塀を背後に平青眼に構えて、前には少なくともまだ十人の敵を控えた島田虎之助の姿を見るや、清川八郎が太刀を抜いて新徴組の中へ切り込もうとするのを、馬から下りて従五位の槍を槍持の手から受取った高橋伊勢が、
「人に斬られる島田でない、ここにて見物せられい、差出《さしい》でては邪魔になる」
 清川を制して、
「仙助、この提灯《ちょうちん》を持て」
 提灯を上げると、そこらあたりが薄月《うすづき》の出たほど明るくなる。
「エイ!」
 島田の気合。バタバタと雪に倒れるもの二人。
「エイヤ!」
 新徴組の入り乱れた気合。一旦パッと離れてまた取囲んだ人の数を数えてみれば朧《おぼ》ろに六個はたしかです。
 島田虎之助の斬り捨てたのがこの時すでに七人です。いかに達人なりとも七人の人を斬れば多少の疲れを隠すことはできまい、またいかに名刀なりとも、これほどの斬合いに傷《いた》まぬはずはあるまい。不思議なことには島田虎之助は、一人斬っても二人斬っても構えがちっとも崩れない、三人斬っても四人斬っても呼吸に少しの変りがないのです。もし明るい日で見たら、彼の面《かお》の色も余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》として子供を相手にしているほどに見えたかも知れません。
 しかしながら新徴組もやはり豪《えら》ことは豪い、これほどにならぬ前に逃げ出すのがあたりまえです。島田虎之助とても逃げる敵を追いもすまい。しかるに味方《みかた》の過半数を斬られて一人も逃げず一歩も引かない、この分では最後の一人が斃れるまでこの斬合いは続くであろう。それというのが彼等はみな抜群の使い手で、我こそ島田を斬らん我こそ我こそという自負があったからです。
 こちらから見ていると一際《
前へ 次へ
全37ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング