まで腹へ触《さわ》られて大兵の男は苛《いらだ》って、面《めん》、籠手《こて》、腹のきらいなく盛んな気合で畳みかけ畳みかけ、透間《すきま》もなく攻め立てる。竜之助は大兵の男の荒っぽい剣術ぶりを笑止《しょうし》がって見ているうちに、少年は右へ左へ前へ後ろへ、ほどよく綾《あや》なす手練《しゅれん》と身の軽さ。そのうちになんと隙《すき》を見出したか、
「突き!」
細い、爽《さわ》やかな少年の声は道場の板の間を矢の如く走ると見れば憐《あわ》れむべし、大兵の男は板の間も砕くる響きを立ててそこに尻餅《しりもち》をついて、鳥羽絵《とばえ》にあるような恰好《かっこう》をして見せたので、並み居る連中は吹き出しそうなのを、主座の方に気兼ねをしてやっとの我慢です。
机竜之助は久しぶりで心地《ここち》よい見物をしたと、その瞬間には今朝よりの不愉快なこともすっかり忘れ去って、少年の手並《てなみ》の鮮《あざや》かなのに感心をすると共に、自分はいかに、我が手腕《うで》の程はいかにという自負心が勃然《ぼつねん》として頭を上げ来《きた》ったのです。
思えば四年以前、御岳山上で試合をしたことの以来、試合らしい試合をしたことがない、日蔭者の身で平侍《ひらざむらい》や足軽《あしがる》どもを相手に腕を腐らせていたのみで、退くとも進むはずはあるまいが、さりとて世間並みの剣客や師範に劣ろうとは思わない、ここの先生はどれほどの人か知らん、とにかく今の少年と一手を争い、次にこの先生のお手の中《うち》を拝見するも一興であろうと、竜之助は矢《や》も楯《たて》もたまらなくなりました。
二十四
改めて玄関から案内を乞うて道場内へと入りました。
主座の先生はちらと、入り来る竜之助の姿を見たばかり。竜之助は門人に導かれてその人の前に跪《ひざまず》き、
「拙者事《せっしゃこと》は江川太郎左衛門の配下にて吉田竜太郎と申す未熟者《みじゅくもの》」
竜之助は我が名を表向き名乗る場合には、それ以来、吉田竜太郎の名を以てします。
「拙者は島田虎之助でござる」
この一語、さすがの机竜之助をして胴震《どうぶる》いをさせるほどに驚かせました。
名にし負《お》う島田虎之助とはこの人のことであったか、父の弾正が剣術の話といえば必ずこの人の名を呼ぶ、父の弾正は当時この人でなければ剣術はないように言う。
竜之助はそ
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