かからないならば、どんなエライ人になったろうかと、そぞろに尊敬の心を起させるようです。

         二十二

「今日は五月のお節句ですねえ」
 障子を少しあけて、初夏の清々《すがすが》しい日光と風とを入れ、その膝のところに、ようやく這《は》うばかりになった男の子を遊ばせて、自分はその子の単衣《ひとえ》を縫っている若い女房は、ちょっと眉根《まゆね》を顰《ひそ》めて男の方を見やりました。
「四年目の五月の節句じゃな」
 見台《けんだい》を前にして何かを読んでいた男の人は、女房の話しかけたのをこう受けてちらと見向きますと、余念なく衣《きもの》を縫うている女房の襟元《えりもと》のあたりが見えます。
「来年もお山に試合がございましょうねえ」
「ある」
「どなたが勝ちましょう」
「誰が勝つか」
「お前様このごろは根っから試合をあそばしませぬ……」
「日蔭者《ひかげもの》の身ではなあ」
 こういって男がなんとなく深く歎息をした時に、女は針の手をとどめて、
「ほんとにもう、日蔭者になってしまいましたわねえ」
 男の面《かお》を見て淋しく笑います。
「いつまでもこうしてはおれぬ」
 男の所在なげに呟《つぶや》く時、女は持っていた縫物を投げ出して、
「坊や、抱《だっ》こをおし」
 膝にまつわる可愛らしい男の子を抱き上げて、
「ほんにお前様のお腕なら、この広い江戸表へ道場を開きなされても立派に師範で通ろうものを……こうしていつまでも日蔭者同様の身ではねえ」
「いまさら愚痴《ぐち》を言っても追っつかぬ、みんな身から出た錆《さび》じゃ」
「でもお前様……」
 女は子を抱いたなり男の方へ膝を向け、
「私たちは日蔭者でも、この子だけはねえ」
「うむ――」
 男は俯向《うつむ》いて物を考えている様子です。
「この子のために何とかして下さいな、わたしはどうなっても構いませんけれど、坊やだけは世に出したいと思いますわ」
「それはお前に言われるまでもない」
 男は少しく癇癪《かんしゃく》に触ったらしく、
「よく日蔭者日蔭者とお前は口癖《くちぐせ》に言うが、日蔭者の拙者といるがいやになったか」
「どうしてまあ――」
 女は怨《うら》めしそうに男の横顔を見つめて、
「こうして四年越し、晴々《はればれ》と明るい世間へ出たこともなし、御近所のお内儀《かみ》さんたちが、やれ花見のお芝居のと誘って下すっても
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