ころ》に動かされてしまったのです。それで神妙に膝に手を置いて弾正の言うところを聞いていると、
「あの竜之助がよい見せしめ、あれも初めは見込みのある剣術であった、わしも最初のうちは欣《よろこ》んでいたが、わしが病気になって以来、すっかり術が堕《お》ちてしまったでな」
「術が堕ちたとおっしゃるのは」
「何も知らぬ者は竜之助がメキメキ腕を上げたと評判するげな。わしが眼で見れば日増しに術が堕ちてゆく。ああ残念な、この身が丈夫であったらあの腕を叩《たた》き直してやろうものをと思わぬ日はなかったが、何を言うにもこの不自由で、みすみす倅《せがれ》を邪道に落した」
 弾正の眼からは竜之助の剣術の進歩を進歩と見ないので、
「あのような剣術が今日《こんにち》の仕儀《しぎ》になるは眼に見えたものじゃ、わしはもう世に望みのない身体《からだ》、兵馬殿、どうか拙者になり代って竜之助を懲《こ》らして下さい」
 弾正は疲れを休めて後、
「とは言え、今の其許《そこもと》では、いかに心が逸《はや》っても竜之助の向うに立つことはおぼつかない、ようござるか、修行が肝腎《かんじん》じゃ」
「修行します、立派に修行しませいでか」
「ああよいお覚悟じゃ。時に、正しい修行には正しい師匠を取らねばならぬ……わしがその正しい剣道の師匠を其許に推薦《すいせん》する、その人について修行なさるがよい」
 弾正が推薦する正しき剣道の師とは何者か。
「下谷の御徒町《おかちまち》に島田虎之助という先生がある、流儀は直心陰《じきしんかげ》、拙者が若いうちからの懇意《こんい》で、今でも折々は消息《たより》をする、この人はまさに剣道の師たるべき達人じゃ」
「島田虎之助先生、お名前も承わったように覚えまする」
「上泉伊勢守の正統を伝えたものは当代にこの人であろう」
 己《おの》れが子竜之助の剣道を邪道と罵《ののし》るにひきかえて、島田虎之助を弾正が推薦することは極度であります。
「正しい代りに修行が厳《きび》しい――厳しい修行で弟子が少ない、もと名聞《みょうもん》を好む性質でないから世間からは多く知られていないが、わしとは若い頃から気が合うてよく交《まじ》わった――せっかく剣道を学ぶならこの人に就いて学びなされ」
 弾正の話の中には、別におのずから見識があって、兵馬にはよくわからないながら、この老人が尋常の人と思えない、もしこんな病気に
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