、悪い気でなく、善い気で盗まれてたまるものか――よし、それほど盗みたいなら七公」
主人は言葉を改めて、
「今夜おれの座敷へ忍んで来て、俺の膝元《ひざもと》へ金包を置くから、それを盗んでみろ、もし見つけたら俺がこの刀で叩き切っちまうがどうだ」
こう言われて七兵衛はかえって平気、
「いいとも旦那、明け方までにはきっと盗んで見せまさあ」
「生意気なことを言う奴だ――いいか、盗み損《そこ》ねたらホントに命はないぞ」
名主は苗字帯刀御免《みょうじたいとうごめん》の人だから、切ってしまうというのはことによると嘘《うそ》ではあるまい。
「もし首尾よく盗んだら旦那様、どうしてくれます」
逆捻《さかねじ》を喰わす口ぶりに、主人もあいた口が塞《ふさ》がらず、
「その時は勝手にしろ」
「そんなら勝手に泥棒してもいいか」
「馬鹿! どうでも今夜は切っちまうからそのつもりで来い」
主人はその晩、一包みの金を自分の膝のところへ置いて、長い刀の鞘《さや》を払い、七兵衛が来たら切らぬまでもこれで嚇《おど》しつけて、その手癖を直してやろうと、燈火《あかり》の下へ右の白刃《しらは》を置いて、机を持って来て夜長のつれづれに書物を読み出していましたが、なかなか七兵衛は来ない。
「やつめ、怖《こわ》くなりやがったな」
と主人も微笑していましたが、やがて一番鶏《いちばんどり》が鳴きました。
ふと見れば、膝元に置いた金の包がない。
「はて」
主人はびっくりして、机の下、行燈《あんどん》の蔭、衣服《きもの》の裾《すそ》まで振って見たけれど、差置いた金包は更に見えません。
「ああ盗《や》られた」
急いで人を起して、
「七兵衛はいないか、七兵衛はどこへ行った」
どこへ行ったやら影も形も見えないので、主人は中《ちゅう》っ腹《ぱら》で、それから日のカンカンさすまで寝込んでしまうと、
「旦那様、七兵衛が見えました」
「ここへ連れて来い」
主人の寝床の前へ七兵衛は平気な面《かお》でやって来て、
「旦那様、お土産《みやげ》を買って来ました」
とて経木《きょうぎ》の皮に包んだ饅頭《まんじゅう》を差出しました。呆気《あっけ》に取られた主人が、
「七兵衛、お前は昨夜どこへ行った」
噛《か》みつくように怒鳴《どな》るのを七兵衛は抜からず、
「旦那様からお金をいただいたから、欲しいと思っていた網とウケ(魚を捕る道具
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