度胸のない人だねえ、そんなにおどおどしてさ。あけてごらん」
「おや」
そこにはまさしく人が立っていたので、
「あれ、お前さんは誰だえ」
「誰でもございません、さきほど店前《みせさき》で追っ払いを食いました百姓で……」
「ええ!」
「まず御免なせえまし」
そこへ入り込んで、どっかと胡坐《あぐら》をかいて黒い頭巾《ずきん》を投げ出したのは、なるほど裏宿《うらじゅく》の七兵衛でありました。
七兵衛は懐《ふとこ》ろへ手を入れて、短刀を出して、刃先を前に向けてブツリと畳へ突き通します。
「お、お金がお入用《いりよう》ならいくらでも差上げますから――どうぞ――どうぞ命ばかりは……」
「お内儀《かみ》さん、お前さんはよく金々と言いなさる、さきほども大枚のお金をわっしに下すったが、その時も申し上げた通り、金が欲しくって上ったわけじゃござんせん」
「そんなら品物を何でも、お好きな物をお持ちなすって……ただいま土蔵へ案内を致させますから」
「くどいやい、今夜は盗みに来たんじゃねえ」
お滝は慄《ふる》え上りながら、やっと気がついたらしく、
「ああ、わかりました、わかりました。さっきお話の本町の彦三郎の娘のこと、つい小僧から又聞《またぎ》きでございまして、まことに失礼を致しました。たしかにわたくしの姪《めい》に相違ございません……よく――よくお連れ下さいました、早速《さっそく》手前どもで引取りまして、実の子のようにしてお育て申します、どうかそれにて御勘弁を。はい、小僧めがいいかげんなことを申しますので、ついどうも飛んだ失礼を申しました……」
「遅いやい遅いやい、いまさら夜迷言《よまいごと》をぬかすな、あの子はあとあとの苦情のねえように、ようく念を押しておれが貰《もれ》え受けたんだ、お前《めい》たちに縁もゆかりもねえ」
「それでは養育料としまして」
「馬鹿め、縁もゆかりもねえものに養育料が要《い》るか」
「どうぞ命ばかりはお助け――」
「命まで取ろうとは言わねえ」
「それでは命をお助け下さる……」
「命は助けてやるめえものでもねえが、ただじゃ帰れねえ」
「それではお金を……」
「金は要らねえ」
「では……」
お滝は絶体絶命の体《てい》を、七兵衛は冷《ひや》やかに笑って、
「山岡屋のお内儀さん、わっしはほかに望みはねえ、お前さんに恥をかかしに来た」
「恥を……」
お滝は唇の色まで真
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