分が巽上《たつみあが》りになって、悪くとれば妙にこだわって、いよいよ悪く見えますから番頭小僧も不安の色を見せていると、七兵衛は、
「お金が欲しいのでお邪魔に上ったように取られては私も残念でごぜえますから、念のためにこの子の死んだお爺さんというのから、お預かり申した金をここでお目にかけます」
といって七兵衛は小包を解いて、中から百両の包を三つ取り出して、
「これが、このお娘子のお爺さんから私が預かりましたお金でございます、ナーニ、ここへ拡げなくてもよいわけでございますが、お金が欲しいくらいならわざわざこうして持って参りは致しません――ところで」
 七兵衛が存外おとなしくて、
「せっかくこうして親類の名乗りをして尋ねて来たものを畳の上へもお通しなされず、見ず知らずとおっしゃって追い出すお家へ、御無理にお願い申してこの娘さんを置いて帰りましたところで行く末が案じられます。こうやってお連れ申してみればマンザラ他人のような気も致しませんから、よろしゅうございます、御当家に縁のないものなら私に縁のあるものでごぜえましょう、今日から私が貰い受けましょう、どうかあとあとのところを苦情のねえように」
 こういって七兵衛は煙管《きせる》を筒の中に納めて、お松を顧み、
「なあお松坊、そういうわけだから、ここはおじさんと帰るさ」
 三百両の金を蔵《しま》って立ち上ろうとする。お松は情けない面《かお》をして、眼にはいっぱいの涙を含んで、小さな顋《あご》を襟《えり》にうずめて頷《うなず》きます。
 夏の夕風がうすら淋《さび》しい。二人が出て行くと、まもなく山岡屋の番頭小僧らはドーッと笑いました。この笑い声を聞いた時、お松は屹《きっ》と振返って山岡屋の暖簾《のれん》を睨《にら》みつけ、暫く立去れない口惜《くや》しさが胸までこみ上げて来るように見えましたが、
「お江戸は広いから居どころに困るようなことはねえ」
 七兵衛はお松を促《うなが》して連れて行く。

         十七

 二人が神田明神の方へ曲ろうとすると、後ろから呼びかけるものがあります。
「もしもしあの、お爺《とっ》さんにお娘さん」
 あたりにあんまり人通りがなかったから直ぐに気がついて二人が振返ると、それはさいぜん、同じ店に反物の柄を見ていた切髪の女でありました。切髪の女は二人に近寄って人懐《ひとなつ》こく、
「あの、無躾《ぶし
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