なんせ旦那様はお留守《るす》だから奥様にそう申し上げて来な、青梅在のお百姓さんが、本町の彦三郎さんのお娘御をお連れ申してお目にかかりたいと申しておりますって、ね、いいか」
「は――い」
小僧は気のない返事をして奥の方へ行きました。
「まあお掛け……」
番頭が月並の愛想で火鉢を出すのをきっかけに、七兵衛は店先へ腰を下ろして、煙草をぷかりぷかりやりながら落着いているうちにも、お松はなんとなくおどおどした様子で、七兵衛のかげに小さくなっていると、さいぜんの小僧が出て来て突っ立ったなり、不愛想《ぶあいそう》極《きわ》まる面付《かおつき》をしながら、
「番頭さん、お内儀《かみ》さんのおっしゃるにはねえ、本町の刀屋さんなんてのは聞いたことも見たこともないって。だからそのお娘さんなんて方には近づきがないから、どうかお帰りなすって下さるように、そう申し上げて下さいと」
これを聞いた七兵衛とお松はハッと面を見合せましたが、お松が進み出でて、
「そんなはずはないのよ」
面を真赤にして眼は潤《うる》みきって、
「そんなはずはありませんよ、こちらのお内儀《かみ》さんは、わたしのお母さんの姉さんだもの、面を見ればわかるのよ」
お松は精一杯《せいいっぱい》にこのことを主張します。番頭と小僧はさげすむような面をして二人を見ていますのを七兵衛は、
「この娘さんもあのように申します、奥様に一度お目にかかればすぐおわかりになりましょう」
「だって、お内儀さんが知らないとおっしゃるものを仕方がないじゃないか」
小僧は口を尖《とが》らします。
「伯母さんに会えばすぐわかるのよ、小さい時お芝居へ連れて行っていただいたこともあるのだもの」
七兵衛はお松の説明のあとをついで、やはり律儀《りちぎ》な百姓の口調《くちょう》で、
「実は、このお娘御とおじいさんとが甲州裏街道の大菩薩峠と申しまするところでお難儀をなすっているところを、私が通りかかってお連れ申したわけで、このお娘さんも頼《たよ》る方《かた》といっては、こちら様ばかりだそうで、いかにもお気の毒ですから御一緒にやって参りましたわけで、どうかもう一度、奥様にお取次を願います」
克明《こくめい》に頭を下げて頼むので、番頭は飛んだ厄介者《やっかいもの》と言わぬばかりに小僧に顋《あご》を向け、
「では、モ一遍お内儀さんにそのことを申し上げてみな」
前へ
次へ
全73ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング