行司役は中村一心斎という老人です。
 この老人は富士|浅間《せんげん》流という一派を開いた人で、試合の見分《けんぶん》には熟練家の誉れを得ている人でありました。
 一心斎は麻の裃《かみしも》に鉄扇《てっせん》を持って首座の少し前のところへ歩み出る。
 首座のあたりには各流の老将が威儀をただして控えている中に、甲源一刀流の本家、武州秩父の逸見利恭《へんみとしやす》の姿が目に立って、このたびの試合の勧進元《かんじんもと》の格に見える。
 宇津木文之丞と机竜之助は左右にわかれて両膝を八文字に、太刀下三尺ずつの間合《まあい》をとって、木刀を前に、礼を交わして、お互いの眼と眼が合う。
 山上の空気がにわかに重くなって大地を圧すかと思われる。たがいの合図で同時に二人が立ち上る。竜之助は例の一流、青眼音無しの構えです。その面《おもて》は白く沈み切っているから、心の中の動静は更にわからず、呼吸の具合は平常の通りで、木刀の先が浮いて見えます。
 竜之助にこの構えをとられると、文之丞はいやでも相青眼《あいせいがん》。これは肉づきのよい面にポッと紅《べに》を潮《さ》して、澄み渡った眼に、竜之助の白く光る眼を真向《まっこう》に見合せて、これも甲源一刀流|名《な》うての人、相立って両人の間にさほどの相違が認められません。
 しかし、この勝負は実に厄介《やっかい》なる勝負です。かの「音無しの構え」、こうして相青眼をとっているうちに出れば、必ず打たれます。向うは決して出て来ない。向うを引き出すにはこっちで業《わざ》をしなければならんのだから、音無しの構えに久しく立つ者は大抵は焦《じ》れてきます。
 こんな立合に、審判をつとめる一心斎老人もまた、なかなかの骨折りであります。
 一心斎老人は隙間《すきま》なく二人の位を見ているが、どちらからも仕かけない、これから先どのくらい長く睨《にら》み合いが続くか知れたものでない、これは両方を散らさぬ先に引き分けるが上分別《じょうふんべつ》とは思い浮んだけれども、あまりによく気合が満ちているので、行司の自分も釣り込まれそうで、なんと合図の挟《はさ》みようもないくらいです。
 そのうちに少しずつ文之丞の呼吸が荒くなります。竜之助の色が蒼白《あおじろ》さを増します。両の小鬢《こびん》のあたりは汗がボトボトと落ちます。今こそ分けの合図をと思う矢先に、今まで静かであった
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