いて一行はこの茶屋を立ち去ります。
あとで宇津木文之丞は静かにこの茶屋を出ました。
これから頂上までは僅かの道のりで、二人の行く前後に諸国の武芸者が肩臂《かたひじ》を怒らして続々と登って参ります。
十二
東国の中でも武蔵の国は武道に因《ちなみ》の多い国柄であります。
武蔵という国号からが、そもそも武張《ぶば》った歴史を持ったもので、日本武尊《やまとたけるのみこと》が秩父の山に武具を蔵《おさ》めたのがその起源と古くより伝えられていますが、御岳山の人に言わせると、それは秩父ではない、この御岳山の奥の宮すなわち「男具那峰《おぐなのみね》」がそれだとあって、これを俗に甲籠山《こうろうざん》とも申します。御岳神社に納められたる、いま国宝の一つに数えられている紫裾濃《むらさきすそご》の甲冑《かっちゅう》は、これも在来は日本武尊の御鎧《おんよろい》と伝えられたもので、実は後宇多天皇の弘安四年に蒙古退治の御祈願に添えて奉納されたものだそうです。
さればこの山の神社に四年目毎に行わるる奉納の試合は関東武芸者の血を沸かすこと並々《なみなみ》ならぬものがあります。八州の全部にわたり、なお信州、伊豆、甲州等の近国からも名ある剣客は続々と詰めかけ、武道熱心のものは奥州或いは西国から、わざわざ出て来るものもあるくらいで、いずれの剣士もみな免許以上のもの、一流一派を開くほどの人、その数ほとんど五百人に及び、既に数日前から山上三十六軒の御師《おし》の家に陣取って、手ぐすね引いて今日の日を待ち構えている有様です。
以上五百人のうち、試合の場に上るのは百二十人ほどで、拝殿の前の広庭には幔幕《まんまく》を張りめぐらし、席を左右に取って、早朝、宮司の式が厳《おごそ》かに済まされると、それより試合は始まります。
さても宇津木文之丞は、程なく山へ登って来て、いったん知合いの御師の家に立寄って、それから案内されて神前の広庭に出向き、西の詰《つめ》から幔幕を潜《くぐ》って場へ出て見ると、もはやいずれの席もギッシリ剣士が詰め切って、衣紋《えもん》の折目を正し、口を結び目を据《す》えて物厳《ものおごそ》かに控えております。自分はそっと甲源一刀流の席の後ろにつこうとすると、首座《しゅざ》の方に見ていた同流の高足《こうそく》広沢|某《なにがし》が招きますから、会釈《えしゃく》して延《ひ
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