はワザと門弟衆へも告げずに、こっそりと御岳山をさして急がせます。
 和田村から山の麓までは三里。文之丞は禊橋《みそぎばし》の滝茶屋で駕籠を捨て、小腋《こわき》には袋に入れた木剣をかかえ、編笠越しに人目を避けるようにして上って行きます。上って二十四丁目の黒門、ここへ来ると鼻の先に本山の頂《いただき》が円く肥《こ》えて、一帯に真黒な大杉を被《かぶ》り、その間から青葉若葉が威勢よく盛《も》り上って、その下蔭では鶯《うぐいす》の鳴く音が聞えます。振返れば山々の打重なった尾根《おね》と谷間の外《はず》れには、関八州の平野の一角が見えて、その先は茫々《ぼうぼう》と雲に霞《かす》んでいる。文之丞はしばしここに彳《たたず》んでいると、黒門|側《わき》の掛茶屋《かけぢゃや》で、
「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」
 女の呼び声に応じて茶屋に入り、腰掛で茶を呑《の》みながら、ふと傍《かたえ》を見ると、茶屋から崖《がけ》の方へ架《か》け出した妙に捻《ひね》った庵室まがいの小屋に、髯《ひげ》の真白なひとりの老人が、じっとこちらを見ています。老人の前には机があって、算木筮竹《さんぎぜいちく》が置いてある。
「易《えき》を立てて進《しん》ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」
 老人はこう申しますのを、文之丞は首を振って見せた、老人は再び勧《すす》めようともしません。
 おりから坂の下より上って来たのは、かの机竜之助の一行で、同じくこの茶屋の前で立ち止まりました。
「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」
「休んで行こうかな」
 竜之助が先に立って、一行を引きつれて、この黒門の茶屋へ入ります。宇津木文之丞は何気《なにげ》なく入って来た人を見ると、それは自分の当の相手、机竜之助でありましたから、ハッと気色《けしき》ばんだが、幸いに編笠《あみがさ》を被って隅の方にいたので、先方ではそれと気がつかぬ様子。
 先刻の老人はまた首を突き出して竜之助の方に向い、
「易を立てて進ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」
 竜之助は老人の面を見て頼むとばかり頷《うなず》くと、老人は筮竹《ぜいちく》を取り上げて、
「そもそも愚老の易断《えきだん》は、下世話《げせわ》に申す当るも八卦《はっけ》当らぬも八卦の看板通り、世間の八卦見のようにきっと
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