外にもこれは離縁状、俗にいう三行半《みくだりはん》でありましたから、
「これは私に下さる離縁状、どうしてまあ」
呆気《あっけ》に取られて夫の面《おもて》をみつめていましたが、開き直って、
「お戯《たわむ》れも過ぎましょう。何の咎《とが》で私が去状《さりじょう》いただきまする」
「問わず語らず、黙って別るるがお互いのためであろう」
「まあ、何がどうしたことやら、仔細《しさい》も聞かずに去状もらいましたと親許《おやもと》へ戻る女がありましょうか、お戯れにも程がありまする」
「浜、この文之丞が為すことがそちには戯れと見えるか、そなたの胸に思い当ることはないか」
「思い当ることとおっしゃるは……」
「言うまいと思えど言わでは事が済まず。そなたは過ぐる夜、机竜之助が手込《てごめ》に遭《あ》って帰ったな」
「エッ、竜之助殿に手込?」
「隠すより現わるる。下男の久作が行方《ゆくえ》と言い、その夜のそなたが素振《そぶり》、訝《いぶか》しい限りと思うていたが、人の噂《うわさ》で思い当った」
「人の噂? 人がなんと申しました」
お浜は嚇《かっ》となり、
「あられもない噂を言いがかりに私を逐《お》い出しなさる御所存か。さほどお邪魔ならば……」
「おお邪魔である、家名にも武名にも邪魔者であればこそ、この去状を遣《つか》わします」
「口惜《くや》しいッ」
お浜は、どうするつもりか夫の脇差《わきざし》を奪い取ろうとするのを、文之丞はとんと突き返したから、殆んど仰向《あおむ》けにそこに倒れました。それを見向きもせず、文之丞は奥の間へ立ってしまいます。夫にこう仕向けられて今更お浜が口惜しがるわけはないはずです、文之丞がもしも一倍|肯《き》かぬ気象《きしょう》であったなら、お浜の首を打ち落して竜之助の家に切り込むほどの騒ぎも起し兼ねまじきものをです。少し気が鎮《しず》まってから、お浜がよくよく考え直したら、ここで離縁を取ったのが結局自分の解放を喜ぶことになるのかも知れない、しかし問題はここを去ってどこへ行くかです、甲州へは帰れもすまい、どこへ落着いて誰を頼る――お浜の頭はまだそこまで行っていないので、ただ無暗《むやみ》に口惜しい口惜しいで伏《ふ》しつ転《まろ》びつ憤《いきどお》り泣いているのです。
宇津木文之丞はその間に、すっかり仕度をととのえて、用意の駕籠《かご》に乗り、たった一人で、これ
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