だけのことで」
「そりゃいけねえ、まあ大切にした方がいい、それじゃ行って来ますから」
嘉右衛門が立去ったあとで、七兵衛はなんと考え直したか、
「お松坊、今から江戸へ行こうや」
「でも、おじさんお怪我は?」
「なあに、馬も駕籠《かご》もあらあな」
「嬉《うれ》しいこと」
お松は大欣《おおよろこ》びで食事もそこそこ、はや手の廻りの用意をします。
十
今日は五月の五日、御岳山上へ関八州《かんはっしゅう》の武術者が集まって奉納試合を為すべき日であります。
机竜之助はこの朝、縁側《えんがわ》に立って山を見上げると、真黒な杉が満山の緑の中に天を刺して立っているところに、一むらの雲がかかって、八州の平野に響き渡れよとばかり山上で打ち鳴らす大太鼓の音は、その雲間より洩れて落ちます。
「ああよい天気」
白い雲の山にかかる時は、かえって五月晴《さつきば》れの空の色を鮮《あざ》やかにします。
「奉納日和《ほうのうびより》でござりまするな」
門弟連ははや準備をととのえてそこへやって来ました。
竜之助も身仕度をして、いつぞや大菩薩峠の上で生胴《いきどう》を試《ため》してその切味《きれあじ》に覚えのある武蔵太郎安国の鍛《きた》えた業物《わざもの》を横たえて、門弟下男ら都合《つごう》三人を引きつれて、いざ出立《しゅったつ》の間際《まぎわ》へ、思いがけなく駈け込んで来たのは水車番の与八でありました。
「若先生、今この手紙をお前様に渡してくれと頼まれた」
与八の手には一封の手紙、受取って見ると意外にも女文字《おんなもじ》。
「お山の太鼓が鳴り渡る朝までに解け」と脅《おど》したあの謎《なぞ》の、これが心か。
竜之助は忙《せわ》しいうちに、くりかえしてこの手紙を読みました。
十一
この日、宇津木文之丞もまた夙《つと》に起きて衣服を改め、武運を神に祈りて後、妻のお浜を己《おの》が居間に招いて、
「浜、誰もおらぬか」
人を嫌った気色《けしき》は別段に改まって、愁《うれ》いと決心とが現われている。
「誰も見えませぬ」
「ちと改まってそなたに申し置くことがあるぞ」
「それは何でござりましょう」
「今日の門出《かどで》に、これをそなたに遣《つか》わします」
机の上なるまだ墨の香の新しい一封の書状、お浜は不審顔《ふしんがお》に手に取って見ますと、意
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