邸の中へ入って調べて見ると、この時の盗難が金子《きんす》三百両と秘蔵の藤四郎《とうしろう》一|口《ふり》。
「届けるには及ばぬ、このことを世間へ披露《ひろう》するな」
 なにゆえか竜之助は家の者に口留めをします。

         八

 宇津木文之丞が妹と称して沢井の道場へ出向いたお浜は、実は妹ではなく、甲州|八幡《やわた》村のさる家柄の娘で、文之丞が内縁の妻であることは道場の人々があらかじめ察しの通りであります。
 お浜は才気の勝った女で、八幡村にある時は、家のことは自分が切って廻し、村のことにも口を出し、お嬢様お嬢様と立てられていたその癖があって、宇津木へ縁づいてまだ表向きでないうちから、モウこんな策略を以て良人《おっと》の急を救わんと試みたわけです。
 宇津木の家は代々の千人同心で、山林|田畑《でんぱた》の産も相当あって、その上に、川を隔てて沢井の道場と双《なら》び立つほどの剣術の道場を開いております。
 竜之助の剣術ぶりは、形《かた》の如く悪辣《あくらつ》で、文之丞が門弟への扱いぶりは柔《やわら》かい、その世間体《せけんてい》の評判は、竜之助よりずっとよろしい。お浜もそれやこれやの評判に聞き惚れたのが、ここへ来た最も有力なる縁の一つであったが、実際の腕は文之丞がとうてい竜之助の敵でないことを玄人《くろうと》のなかの評判に聞いて、お浜の気象《きしょう》では納まり切れずにいたところを、このたび御岳山上の試合の組合せとなってみると、文之丞の悲観歎息ははたの見る目も歯痒《はがゆ》いのであります。お浜は焦《じ》れてたまりませんでしたが、それでも良人の危急を見過ごしができないで、われから狂言を組んで机竜之助に妥協の申入れに行ったのが前申す如き順序であります。

 その晩、お浜は口惜《くや》しくて口惜しくて、寝ても寝つかれません。
 憎い憎い竜之助、歯痒《はがゆ》い歯痒い我が夫、この二つが一緒になって、頭の中は無茶苦茶に乱れます。竜之助と文之丞とは、お浜の頭の中で卍《まんじ》となり巴《ともえ》となって入り乱れておりますが、ここでもやはり勝目《かちめ》は竜之助にあって、憎い憎いと思いつつも、その憎さは勝ち誇った男らしい憎さで、その憎さが強くなるほど我が夫の意気地のなさが浮いて出て、お浜のような気の勝った女にはたまらない業腹《ごうはら》です。
 縁を結ぶ前には、門弟
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