ばら》くして与八は、一人の女を荒々しく横抱きにして、ハッハッと大息を吐いて、竜之助の前に立っています。与八に抱《かか》えられている女は、さっき兄のためと言って竜之助を説きに来た宇津木のお浜であります。

 それからまた程経《ほどへ》て、河沿いの間道《かんどう》を、たった一人で竜之助が帰る時分に月が出ました。

 竜之助が万年橋の詰《つめ》のところまで来かかると、ふと摺違《すれちが》ったのが六郷下《ろくごうくだ》りの筏師《いかだし》とも見える、旅の装《よそお》いをした男で、振分けの荷を肩に、何か鼻歌をうたいながらやって来ましたが、竜之助の姿を見て、ちょっと驚いたふうで、やがて丁寧《ていねい》に頭を下げて、
「静かな晩景《ばんげ》でござりやす」
 竜之助はやり過ごした旅人を見送っていたが、
「少し待て」
「へい」
「お前はどこから来た」
「へい、氷川《ひかわ》の方から」
「氷川? 氷川の何というものだ、名は……」
「へい、七兵衛と申します筏師で」
「待て、待てと申すに」
「何ぞ御用で……」
 立ち止まるかと思うとかの男は身を飜《ひるがえ》して逃げようとするのを、竜之助は脇差《わきざし》に手をかけて手練《しゅれん》の抜打ち。
 侮《あなど》り切って刀へは手をかけず、脇差の抜打ちで払った刃先《はさき》をどう潜《くぐ》ったか、旅の男は飛鳥《ひちょう》の如く逃げて行きます。竜之助は自分の腕を信じ過ぎた形になって、切り損じた瞬間に呆然《ぼうぜん》と、逃げ行く人影をみつめて立っている。
 早いこと、早いこと、飛鳥といおうか、弾丸といおうか、四十八間ある万年橋の上を一足に飛び越えたか、その男の身体《からだ》はまるで宙にあるので、竜之助はその迅《はや》さにもまた気を抜かれて、追いかけることをも忘れてしまったほどでした。
 脇差の切先《きっさき》を調べて見ると肉には触れている、橋の上をよくよく見ると血の滴《したた》りが小指で捺《お》したほどずつ筋《すじ》を引いてこぼれております。竜之助は右の男を斬り殺そうとまでは思わなかったが、斬ろうと思うた程度よりも斬り得なかったことが、よほど心外であるらしく、歯咬《はが》みをして我家の方《かた》をさして行くと、邸のあたりが非常に混雑して提灯《ちょうちん》が右往左往《うおうさおう》に飛びます。
「あ、若先生、大変でござります、賊が入りました」
「賊が?
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