《るす》……」
 女はハタと当惑したらしく、
「左様ならば、いつごろお帰りでございましょうか」
「さればさ、うちの若先生のことでござるから、いつ帰るとお請合《うけあ》いも致し兼ぬるで……」
「遅くとも今宵《こよい》はお帰りでございましょう」
「それがその、今申す通り、いつ帰るとお請合いを致し兼ぬるが、次第によりては拙者ども御用向を承り置きまして」
 安藤と来客の若い婦人との問答を道場の連中は面白がって洩《も》れ聞いておりましたが、
「若先生に直談判《じかだんぱん》というて美しい女子《おなご》が乗り込んで来た、前代未聞《ぜんだいみもん》の道場荒し」
「見届けて参りましょうか」
 自《みずか》ら薦《すす》めて斥候《ものみ》の役を承ろうとする者がある。
「賛成賛成、裏口から廻って見て参られい」
 ますます御苦労さまな話で、まもなくあたふたと走《は》せ戻《もど》って、
「見届けて参りました、確《たし》かに見届けて参りました」
 息を切っての御注進《ごちゅうしん》です。
「どのような女子じゃ」
「あれは和田の宇津木文之丞様の奥様でござりまする、しかも評判の美人で……」
「ナニ、和田の宇津木の細君《さいくん》か、さいぜん妹だというたではないか」
「いいえ、お妹御ではございませぬ、まだ内縁でございまして甲州の八幡《やわた》村からついこの間お越しのお方、発明で、美人で、お里がお金持で評判もの、私は、八幡におりました時分から、篤《とく》とお見かけ申しました」
「文之丞の細君が何故に妹と名乗って当家の若先生を訪ねて来たか、それが解《げ》せぬ」
「あ、若先生のお帰り」
 無駄口がパタリとやんで、見れば門をサッサッと歩み入る人は、思いきや、一昨日、大菩薩の上で巡礼を斬った武士――しかも、なり[#「なり」に傍点]もふり[#「ふり」に傍点]もその時のままで。

         五

 竜之助の前には、宇津木の妹という、島田に振袖《ふりそで》を着て、緋縮緬《ひぢりめん》の間着《あいぎ》、鶸色繻子《ひわいろじゅす》の帯、引締まった着こなしで、年は十八九の、やや才気ばしった美人が、しおらしげに坐っています。
「お浜どのとやら、御用の筋《すじ》は?」
 竜之助の問いかけたのを待って、
「今日、兄を差置き折入ってお願いに上りましたは」
 歳にはませた口上《こうじょう》ぶりで、
「ほかでもござりませぬ、
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