五日の日の御岳山《みたけさん》の大試合のことにつきまして……」
竜之助もいま帰って、その組状を見たばかりのところでした。そうして机の上に置かれた長い奉書の紙に眼を落すと、女は言葉を継《つ》いで、
「その儀につきまして、兄はことごとく心を痛め、食ものどへは通らず、夜も眠られぬ有様でござりまする故、妹として見るに忍びませぬ」
「大事の試合なれば、そのお心づかいも御尤《ごもっと》もに存じ申す、我等とても油断なく」
素気《すげ》なき答え方。女は少し焦《せ》き込んで、
「いえいえ、兄は到底《とうてい》あなた様の敵ではござりませぬ、同じ逸見《へんみ》の道場で腕を磨いたとは申せ、竜之助殿と我等とは段違いと、つねづね兄も申しておりまする。人もあろうに、そのあなた様に晴れのお相手とは何たること、兄の身が不憫《ふびん》でなりませぬ」
「これは早まったお言葉、逸見先生の道場にて我等如きは破門同様の身の上なれど、文之丞殿は師の覚えめでたく、甲源一刀流《こうげんいっとうりゅう》の正統はこの人に伝わるべしとさえ望みをかけらるるに」
「人がなんと申しましょうとも、兄はあなた様の太刀先《たちさき》に刃向《はむか》う腕はないと、このように申し切っておりまする」
「それは御謙遜《ごけんそん》でござろう」
竜之助は木彫《きぼり》の像を置いたようにキチンと坐って、面《かお》の筋《すじ》一つ動かさず、色は例の通り蒼白《あおじろ》いくらいで、一言《ひとこと》ものを言っては直ぐに唇を固く結んでしまいます。女はようやく躍起《やっき》となるような調子で、頬にも紅《べに》がさし、眼も少しかがやいてきたが、
「もしもこのたびの試合に恥辱を取りますれば、兄の身はもとより、宇津木一家の破滅でござりまする。ここを汲み分けて、今年限り、兄が身をお立て下さるよう、あなた様のお情けにすがりたく、これまで推参《すいさん》致しました、なにとぞ兄の身をお立て下されまして」
女は涙をはらりと落して、竜之助の前にがっくりと結立《ゆいた》ての髪を揺《ゆる》がしての歎願です。
竜之助は眼を落して、しばらく女の姿をみつめておりましたが、
「これはまた大仰《おおぎょう》な。試合は真剣の争いにあらず、勝負は時の運なれば、勝ったりとて負けたりとて、恥《はじ》でも誉《ほまれ》でもござるまい、まして一家の破滅などとは合点《がてん》なり難《がた》き
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