段大菩薩峠の殺人の翌々日のことでありました。
「さて、道具無しの一本」
「心得たり、若先生の型《かた》を」
門弟二人が左右に分れると、
「沢井道場|名代《なだい》の音無《おとな》しの勝負」
口上《こうじょう》まがいで叫ぶ者がある。
沢井道場音無しの勝負というのは、ここの若先生、すなわち机竜之助が一流の剣術ぶりを、そのころ剣客仲間の呼|慣《なら》わしで、竹刀《しない》にあれ木剣にあれ、一足一刀の青眼に構えたまま、我が刀に相手の刀をちっとも触《さわ》らせず、二寸三寸と離れて、敵の出る頭《かしら》、出る頭を、或いは打ち、或いは突く、自流他流と敵の強弱に拘《かかわ》らず、机竜之助が相手に向う筆法はいつでもこれで、一試合のうち一度も竹刀の音を立てさせないで終ることもあります。机竜之助の音無しの太刀先《たちさき》に向っては、いずれの剣客も手古摺《てこず》らぬはない、竜之助はこれによって負けたことは一度もないのであります。
その型をいま二人は熱心にやっていると、おりから道場の入口とは斜めに向った玄関のところで、
「頼む」
中では返事がない。
「頼みましょう」
まだ誰も返答をするものがない。そのうちに、こちらの立合《たちあい》は、一方が焦《じ》れて小手《こて》を打ちに来るのを、得たりと一方が竹刀を頭にのせて勝負です。
「お頼み申します」
勝負が終えて気がついた門弟連が、こちらから無遠慮《ぶえんりょ》に首を突き出して見ると、お供の男を一人つれて、見事に装《よそお》うた若い婦人の影が植込の間からちらりと見えました。
「拙者《せっしゃ》が応対して参ろう」
いま立合をして負けた方のが、道場から母屋《おもや》へつづいた廊下をスタスタと稽古着《けいこぎ》に袴《はかま》のままで出てゆくと、
「安藤さん、若い女子《おなご》のお客と見たら臆面《おくめん》なしに応対にお出かけなすった」
皆々笑っていると、
「ドーレ」
安藤の太い声。ややあって女の優《やさ》しい声で、
「あの、手前は和田の宇津木文之丞《うつきぶんのじょう》が妹にござりまする、竜之助様にお目通りを願いとう存じまして」
「ハハ左様《さよう》でござるか」
姿は見えないけれども、安藤がしゃちほこばった様子が手に取るようです。
「その若先生はな」
いよいよ安藤は四角ばって、
「ただいま御不在でござるが」
「竜之助様はお留守
前へ
次へ
全73ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング