言って高橋伊勢守も静かに立ち上る。
 まもなく楠屋敷の門を、陣笠に馬乗羽織、馬に乗った伊勢守の側《わき》に清川八郎がついて、雪を蹴立てて走り出すと、従五位の槍の槍持《やりもち》がそれに後《おく》れじと飛んで行く。

         三十一

 高橋伊勢守と清川八郎とが馳《は》せつけた時は、新坂下は戦場のような光景で、気合の声は肉を争う猛獣の吼《ほ》ゆるが如く、谷から山に徹《こた》える、雪と泥とは縦横《じゅうおう》に踏みにじられた中に、右に左に折重なって斃《たお》れた人の身体《からだ》が五つ六つは一目に数えられる、血の香いはぷんとして鶯谷に満つるの有様です。
 塀を背後に平青眼に構えて、前には少なくともまだ十人の敵を控えた島田虎之助の姿を見るや、清川八郎が太刀を抜いて新徴組の中へ切り込もうとするのを、馬から下りて従五位の槍を槍持の手から受取った高橋伊勢が、
「人に斬られる島田でない、ここにて見物せられい、差出《さしい》でては邪魔になる」
 清川を制して、
「仙助、この提灯《ちょうちん》を持て」
 提灯を上げると、そこらあたりが薄月《うすづき》の出たほど明るくなる。
「エイ!」
 島田の気合。バタバタと雪に倒れるもの二人。
「エイヤ!」
 新徴組の入り乱れた気合。一旦パッと離れてまた取囲んだ人の数を数えてみれば朧《おぼ》ろに六個はたしかです。
 島田虎之助の斬り捨てたのがこの時すでに七人です。いかに達人なりとも七人の人を斬れば多少の疲れを隠すことはできまい、またいかに名刀なりとも、これほどの斬合いに傷《いた》まぬはずはあるまい。不思議なことには島田虎之助は、一人斬っても二人斬っても構えがちっとも崩れない、三人斬っても四人斬っても呼吸に少しの変りがないのです。もし明るい日で見たら、彼の面《かお》の色も余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》として子供を相手にしているほどに見えたかも知れません。
 しかしながら新徴組もやはり豪《えら》ことは豪い、これほどにならぬ前に逃げ出すのがあたりまえです。島田虎之助とても逃げる敵を追いもすまい。しかるに味方《みかた》の過半数を斬られて一人も逃げず一歩も引かない、この分では最後の一人が斃れるまでこの斬合いは続くであろう。それというのが彼等はみな抜群の使い手で、我こそ島田を斬らん我こそ我こそという自負があったからです。
 こちらから見ていると一際《
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