腕は鳴り刀は鞘《さや》を走ろうとするのを抑えて、土方を先に十余人が乗物のあとをついて、五軒町、末広町と過ぎて広小路へかかろうとするが、土方はまだ斬れとも蒐《かか》れとも言いません。
こんなことを知ろうはずのない清川の乗物は、ずっと上野の山下へ入って行きます。
「町家《ちょうか》を避けて山へ追い込み、そこで充分に仕遂《しと》げるつもりだな」
こう思って各々《めいめい》は同じく山下へ入り込んで行きましたが、究竟《くっきょう》と思う木蔭《こかげ》山蔭《やまかげ》をも無事に通り抜けさして、ついに鶯谷《うぐいすだに》、新坂《しんざか》の下まで乗物を送って来てしまいました。
何のことだ、ここを過ぐれば山は尽きる。
三十
新坂から鶯谷へかかる所、後ろはものすごい上野の森、離れては根岸から浅草へわたり、寺院や武家屋敷の屋根が所まばらに見えるくらいのものです。
清川八郎を乗せた駕籠がいよいよ新坂下の原までかかった時に、雪は降ることが大分薄くなって、おりから月のあるべき夜でしたから空はいちじるしく明るく見えました。
「その駕籠、待て!」
今まで息を殺していた土方歳三が大喝一声《だいかついっせい》、自《みずか》ら颯《さっ》と太刀を引き抜くと、蝗《いなご》の如く十余人抜きつれて乗物を囲む。
駕籠舁《かごかき》はそれと見て立ちすくみ、
「誰だ、誰だいッ、ふ、ふざけたまねをするない」
振舞酒《ふるまいざけ》の余勢で巻舌《まきじた》をつかってみましたが、からきり物になりません。提灯を切り落されると地面に突伏《つっぷ》して、
「御免、お助け、命」
「行け!」
ほしいままに駕籠舁|風情《ふぜい》の命を取ることを好まなかった。こけつ転《まろ》びつ彼等が上野の山蔭に逃げて行くに任せて、さて十五人の刃《やいば》は一つの乗物に向う。
駕籠の中はヒッソリして、ほとんど血の通う人の気《け》はあるまじき様子です。眠っていたならば覚めねばならぬ、覚めていたならば起きねばならぬ。
「出ろ!」
呼ばわってみましたけれども、相も変らずヒッソリとしたものです。土方歳三は一人の黒と頷《うなず》き合うと、スーッと左の方から進み寄って太刀を取り直す。
同時に、いま頷き合った黒の一人は、右の駕籠|側《わき》に廻って太刀を振りかぶる。
残る十余人はやや退いて、透間《すきま》もなく遠巻き
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