話が、たったいまここからでもはじめられたかのように訊返《ききかえ》した。
「うむ、君にしたところで、教室では一面識がないという訳でもなかろう、倫理学の大家の――」
「あ。」
彼は思い出すことがあったかのように、しずかに応えたのではあったが、その実、その名ざされた博士の俤《おもかげ》さえ思い出してはいなかった。
「君、部屋のなかに閉籠《とじこも》っているので、散歩がてらそこへ行ってみ給え。」
「そこと言うと――」
「困るね、その態度では。中学校の教師にでもなろうという者が。――博士はそこの顧問だ……」
「中学校?」
「うむ、君はリーダーの二を教えるようになるだろう。多分そうだろう。」
「おれが?」
「君、困るな――」
「解った!」
彼は答えた。そうして自分の身にふりかかっている就職口の件について、最初のところから訊き返してみる考えであった。彼はただこのことに興味を感じたに過ぎなかった。一面彼は面倒なことが持ち上って来たと考えないでもなかった。そうして就職口を探し廻っているというそんな幻滅的なことに苦しめられるのは、彼自身としても嫌いなことであったから、就職を強いられることについてなど
前へ
次へ
全91ページ中81ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
富ノ沢 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング