に、古本屋の主人は帰った。
 彼はきょう古本屋の主人を呼び、書籍全部を売却する考えであった。そうして彼はその金で何処へか旅行するつもりであった。ところが彼には古本屋の主人の言うことが一一癪に触った。本屋は流行の本ででもなければ価値がないと思い込んでいる。この売れゆきのことは別としても、書物を手に持ったか持たぬさきに、直ぐ無造作にそれを投げ出す本屋のしうち[#「しうち」に傍点]に、彼は腹をたてた。彼は内心怒った。彼にはその様子が見ていられなかった。ちょうどそれは指一本ずつ切って捨てられるような苦痛であった。それに三十前後のその主人は、一ことごとに変に語尾を長く引きながら、へ、へ、へと笑う。その笑いを飲料物のように飲みこんでから、にやりと顔全体で笑う。反古紙《ほごがみ》のような顔。彼はその顔に嫌悪を催した。大方はこんなことで彼は一切その申出を受けつけなかった。そうして彼は肉眼には見えないものの声に耳を傾けた。
「君はおれを忘れたのか――
「それは忘恩というものだ――
「おれは十分君を憎む――
「それはおれを愚弄したことになる罰だ――
「おれは十分君を憎む――
「おれは冷たい吹息を吹きかけら
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