いる人のように、浅い眠りより外は眠ったことのない彼には、未だに夢のなかに取残されているように感じられた。そうしてあの出来事は、恍惚《こうこつ》として醒めきらないこの苦い快感のなかに、未だに織りこまれている。彼はお柳のことを考えはじめた。彼は怪しく織りこまれたその糸口を手探りはじめた。そうして彼は夢のなかのことのようなその空想によって、しばらくの間を楽もうとした。彼は自分の空想のなかで、お柳とともに話し合うてみたいのであった。――殆《ほと》んど話と言っては互に語り合ったことのないお柳と。――否、彼は自分を奈落の底へ陥れた、彼自身の胸のなかの最初の対象であった相手と話し合ってみたいのであった。そのために彼は自分とその女との間へお柳をさしはさんでみなければならなかった。それが嬉しかった。一層はっきりと彼の瞳へ映ってくるものがあった。十年も以前、彼はその女を愛した。――恋した。しかしその女は、花火のような愛情の閃《ひらめ》きを残して、その家族とともに遠くへ旅立った。彼女の離別の言葉は、彼を悲しませた。そうして間もなくして、その言葉は、彼女のこの世への死別の言葉となってしまった。――その時彼女は
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