屋を去った。月が昇っているのか、ただ閉めてない廊下の上はほの白く灰色に鈍っていた。そこを踏む彼の足裏はひやりと冷気を感じた。
*
彼の自由な生活は冬と春との境のように活気づいて来た。八畳敷ぐらいに見えるその土蔵のなかに、彼は床を敷いたまま枕元には――「宝石培養法」――「毒人参《ヘムロック》」――シュワルツ・ホフマン博士が、人間の影を水銀のなかへ保存したことを書いた、「灰色のスフィンクス」――その姉妹篇とも見える、「影人形」というのは、ヘレナ・ベルベルという旅行好きの伯爵令嬢が、或廃墟となった古城の壁のなかから抜き出して来た人間の影と交渉する小説である。――「ヴェラ・リカルド夫人の橢円形の指輪」という、これはヴェラ・リカルド夫人が、アフリカ探険に行った良人《おっと》に死別して、間もなく再婚するその結婚披露式の夜、或未知の外国人から貰った橢円形の指輪の怪奇的物語で、ちょっと見ると宝石のようなその橢円形のもの[#「もの」に傍点]は、実は獅子《しし》の生きている右眼が嵌込《はめこ》んであるというところから、その物語は二百頁も続く。――「声論」という題で、紀元前二百年頃のアンセル
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