のなかへ叫びかけた。しかし彼はもじもじしている彼女の態度を見守っていた。彼女は無言で立ち上った。彼女は庭へ下りて戸外へ出た。そうして彼へも跟《つ》いて来るようにと、その身振りで示した。彼は彼女の背を逐うた。彼等二人は、上半身を斜に捩《よじ》って、ようやく通れるぐらいの路地を潜《くぐ》り抜け、余り広くもないその裏の広場へ出た。そこには先ずありそうに思える井戸があった。その傍には崩れかけた小さな土蔵がひしゃげて立っていた。そこは彼女の家の裏口に当るところであった。
「ここはどう?」
 彼女はその土蔵の戸を開けながら言った。枢《とぼそ》は砂を噛《か》んで軋《きし》った。彼は開けられた戸口から内の様子をひとわたり覗いてみた。がらん堂でしかも淋しく黙した内部は、彼の薄れている瞳を迎えた。そこは外見よりは綺麗でもあった。
「明日から来ます。」
 彼は低い調子の嗄《しわが》れた声で言った。
 ―――――
 青沼は影佐が明日一人で転居するということを聞いた時、黙したまま頸《くび》を振って点頭《うなず》いた。そうして青沼はペン軸を読みさしの書物の間へ挟んだ。親友は何か物を言いたげであった。彼はしずかに部
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