してこの間にあって、彼は田舎の母親へ数回手紙を出しそこねた。――身のおちつくまでお待ち下さい――というのが、彼の母親への文面の主要なるものであったが、しかし彼にはどうしてもそのことが書き流せなかった。そのうちについ書くことが消えてしまい、そうしてとうとうそれは忘れるともなく全く忘れ果《はて》てしまった。
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私には悲しく思われます。あなたが決して嘘を申されたとは思いませんが、此度《このたび》あなたのなされた態度は無情なものです。私は親切を売物にしたのではありませんが、すべて水の泡となって消えたのでしょうか。善は急げとか申して居ります。一刻も早くお話のこと実行なされては如何《いかが》です。母上からは三度程お手紙がありました。……
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彼は横に腹這いながら美角夫人からの附箋づきの手紙を読んでしまって、思わずも……――これは全く――……と、訳の解らない一種の不快をおさえるかのように、彼自身へ言ってみた……――おれは母の信用を質入したようなものさ。ところで、まだその期限は切れそうにもないぞ。――……
彼には最早自分の母親を呼び寄せるだけの望みも楽みもなくなっていた
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