観客は両人の事情を露さえ知らなかった。
楽しむべき光景
恐るべき光景
観客は両人の決闘を演技の一つと思った。
「ヤッ」
綱は波のように弾んだ――空気は血の色をして閃《ひらめ》いた。
「畜生」
「右だ」
カチン――カチン
火花は散った。
サルフィユは背撃を食って、身体の中心は落下に奪われた。瞬間、彼はもんどりうって、両手でしっかりと綱を掴《つか》んだ。綱は大波を打って、空気を裂いてはげしく揺れた。
ペテロも亦《また》、はずみを食って転落した――しかし彼は頭部を倒《さかさ》にして、足をもって綱にぶらさがった。綱は弾んで鳴った。
拍手
鯨波
観客は荒された丘の畑のように乱れ、どよめくままに鯨波とともに総立になった。
渦巻く声――
渦巻く声――
高翔する声――
空気は意識あるもののように鳴った。
この記念すべき光景――
この記念すべき言葉――
狼煙《のろし》のように、サルフィユの言葉は空中へ突進した。
「満場のみなさま、御覧下さい。ペテロの靴の踵《かかと》に附いている金具を御覧下さい。ペテロ君が、きょうまで、綱の上で暮して来た金具を御覧下さい。おれよりも
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