一瞬、彼の瞳は曇ったが、泣いていたのではなかった。
「おれの憧れは憧れ以上のものではない」
 彼は身内を顫《ふる》わした。彼の疲れた瞳には軽い微笑みの色が浮いた。
「おれの才能はペテロを見るだけにも足りない。ただ彼を楽しむに過ぎない」
 彼の眼は綱へ平行して走っていた。
「おれの才能はサルフィユを見るだけにも足りない。ただ彼を楽しむに過ぎない」
 彼の掌には油汗が滲《にじ》みでていた。
 楽隊
 鯨波
 拍子
「フレンド、シップ、ダンス」
「おいらのサルフィユ、しっかりせえ。足元をしっかりせえ」
 ペテロは相手を少々馬鹿にしてかかった。サルフィユは先ず彼の剣を突き出した。
 カチン
 火花
 ペテロは軽く腰を引いて、相手の顔を睨《ね》めつけた。
 カチン
 火花
 ヒュッ――ヒュッ
 火花
 火花
 汗――
 熱狂
 動悸
 熱い呼吸
 血の熱狂
 肉の躍動
 汗
 熱い呼吸
 心臓の鼓動は綱の上に波打った。
 声――
 声
 怒
 怒
 火花
 憤怒
「おいらのペテロ」
「おいらのサルフィユ」
「しっかりせえ」
「それッ」
「右だ」
 カチン――カチン
 恐るべき光景
 笑うべき光景
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