めであった。少年期の失恋だ。それ以来おれは天井裏を這《は》い廻る夜の蠅のような哲学者になってしまった。おれは黄金の都会から墜落した覆面のエピキュリアンになってしまったのかも知れない!……」
 彼は虚言を吐きつづけて、のたれ死にする倫理学者のように、迷妄の境に彷徨《さまよ》うていた。

   ――影佐が青沼へ物語った或小説の筋――

「金貨のジャック!」
 娼婦達は、夜毎に繰返すこの言葉を胸のなかに呟《つぶや》いて白粉刷毛《おしろいはけ》を動かした。
 彼女等のクインは、窓辺に靠《もた》れて、湾内の船舶を数えた。
 ダブリンの町とその湾とは、蒼白《あおじろ》い光に慌《あわただ》しい雑音を織返していた。
「仕事着の情人!」
 港の娘達は、戸口へ佇《たたず》んで、湾内を渡って来る快い軟風を吸いながら、彼女等の胸へ叫びかけた。
 彼女等の母親は、台所で食器を友として立働いていた。
 夕方に三十分は猶予のある五月の暮方。
 E・E・E――商標。
 Fine Old Scotch Whisky――看板の黒い文字は逆に読まれる。
 このレストランのなかの卓子に、二青年が座っていた。彼等は、先刻、海岸
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