ようとは夢想だにしていなかった。彼自身には、他人から軽蔑されるだけの行為はあったにしても、それは自己の我執を刺戟したまでのことである。その行為の動機は、それこそすべて、他人の冷淡と卑劣と羨望《せんぼう》と臆病とから生れる彼自身の恐るべき不安を愛することに根ざしてはいなかったであろうか、と、こう考え至るなら、彼にとっては、最早こんな事柄はどうでもいいことになる。いまの彼にとっては、何でもないことである。いまや彼は自分の敵に向って宣戦を布告するのであるから。
「宣戦を布告する……どんなものだろう?」と彼が肩をそびやかして威丈高《いたけだか》になるのに対して、「お前は馬鹿だ!」と誰かがその声のない言葉を舌の先きでまるめこんでしまった――彼は歩きながらこんなことを繰返し惑うていた。突然、彼の歩調は乱れはじめた。彼は息をはずませた。彼は坂を登りかけていた。車はためらいがちに進んだ。彼は見るともなく前方を見ていた。青沼白心は坂の上で、頭上高く手を打ち振りながら、彼へ合図をしていた。
「君、遅いね、また君は悲しそうな顔をしているよ!」
 彼は親友のその合図を彼自身の言葉に飜訳《ほんやく》してみた。

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