みを見ようとしている――しかし実際彼は彼女の気に入るように骨折った。彼は自分の心からの憔悴《しょうすい》を彼女の前で隠した。彼女はいままでに見せつけられなかった彼の態度から多少なりとも驚愕と嫌悪とを感じなかったのである――そうして彼女には彼自身へ向ける疑惑の心などは更にないのである、否、そんな態度などは少しも見せなかったのである――と、するなら彼の生活を誰が彼の母親へ告げしらしてやったのであろう。彼の母親には彼を見張るために密偵を差向けるだけの余裕はない。それなら? 彼は考えなければならない。それは慥《たし》かに何ものかが、その間に介在していなければならない。
「伝心?」
「分身?」
「陰謀者?」
 彼はまたしてもこんな考えのなかへ惹《ひ》き入れられようとしていた。その時、親友青沼白心と約束しておいた荷車が今いる宿へ着いたので、彼は自分を不可解な彼自身から呼び醒《さま》したように感じた。そうして彼は秩序もなく荷物をかたづけて送り出した。彼は雪のなかを蹌踉《よろ》めきながら進み行く人のように、その荷車の後ろへ従《つ》いて行った。

     *

 彼自身は、人が言うように、決して堕落し
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