頸《くび》が振向く瞬間に、その少女の右足は、宙に浮いていた。そうして彼はその少女の靴へほんの少し蟋蟀《こおろぎ》の糞《くそ》ほどの泥がはねあがっているのを見つけた。
「何か持っていない?」
「……」
「拭くもの!」
彼はこの言葉で狼狽《あわ》てながらも、懐中から先刻貰ったプログラムと真新らしいハンカチとを一束《いっそく》たに掴《つか》み出した。彼にとって、そのプログラムは日記の全頁に相当していた。笑いごとではないが。彼は一時の虚栄からではなく、そのハンカチを彼女へ与えた。彼女は雨にうたれていまは消えてなくなった靴の上の泥のあった跡を、そのハンカチで拭ってからそのままそれを捨ててしまった。赤黒い泥の上で真白なハンカチが皺《しわ》くちゃになって笑った。
「ストップ!」
その声は人の度肝を貫くような命令であった。その大きな声の叫ばれた瞬間、彼はどきんと胸を叩かれたように感じた。彼は馳け足をする最初の時のように項《うなじ》を擡《もた》げた。幾千万の眼が傘の下から彼等二人を眺めていた。こんな場合ではあるが、よく見てみると、町の一角に撮映機を据え附けた外人の一隊が、機械のハンドルを止めて、こち
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