と開けた。その刹那《せつな》、彼の躯は、ひやりと夜の空気に打たれたと同時に、何ものかにナイフででも切られたかのように掠《かす》められた。彼は眼が眩《くら》んだように感じた。その時、彼はその何者か解らないものは、いままで部屋のなかに潜伏していた一人の陰謀者の輪廓のないたましいではないかと思った。彼がこう思えば当然であると会得出来る。しかしこれは莫迦《ばか》莫迦しいほど無智な表白ではなかろうか。ところが、この無智こそ人間に対する一つの威嚇《いかく》である。この愚鈍と交流してこそ人生は荘厳になるのである。何故なら、自己の絶えない失脚は、自己の実現に無駄骨を折っているから。若しも――彼は考えつづけた――一流の賭博《とばく》者は、素人《しろうと》である相手に、現金を山と積まれて勝負に熱中したところで、その札の山を切り崩して行くことは出来ない。この羅針盤の紛乱こそ人間の胸のなかへ挑まれる内心からの抵抗の動乱である。この電流と稲妻との焦噪は、物理学上の実験とも合致する。これは兎《と》も角《かく》として、人間が自分一人で自慢出来るようになるのは、あの奇妙に角張った威嚇が存在するために外《ほか》ならない
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