が、倫理上の問題とならぬば[#「ならぬば」は「ならねば」の誤記と思われる]ならぬからだ。彼によると、個人が神の僕であると同じに、社会は神に仕えるためのものであって、全く道徳的本質のものだ。山賊ででもない限り、人間はこの社会の正義たる国法を遵らねばならぬ、と云うことになる。特にキリスト教国に於ては、社会の倫理的行為たる教育は、神の認識を教えることだけで充分であって、ギリシア人的な自然研究などは無用有害だと云うのである(尤も言語・弁証術・修辞学・数理論は必要だとする――事実アウグスティヌスは優れた文化人であったことを忘れてはならぬのだ)。――かくてアウグスティヌスの神に基く神聖倫理は、つまり世俗のカエサルの帝国に於ける常識的な階級道徳そのものと、少しも実質を異にするものではない。倫理学に於ける神学的観念論[#「神学的観念論」に傍点]はここに始まる。
アウグスティヌスによって道徳の観念は宗教倫理的なものとなった。ここに含まれる特有な道徳問題は、単に善(或いは悪)や幸福(乃至浄福)の問題ではなくて、恩寵であり永生であり、そしてもっと大事なのは、之に直接関係のある悪[#「悪」に傍点](根本悪)と自由意志[#「自由意志」に傍点]との問題なのである。之はギリシア倫理学では殆んど全く存在しなかったものであると共に、之なくしては近代ブルジョア倫理学を考えることの出来ないような、根本問題なのだ。こうした根本問題がアウグスティヌス(広くキリスト教倫理学)から発生したのである。
さて私は以上、古代(乃至中世)に於ける道徳理論乃至倫理説・倫理学の三つの典型と、夫々に含まれた課題とを述べた。そしてこの三つのものが、夫々の形に於て、如何に観念論と不可分な関係に立っていたかを見た。――之を頭においた上で、近代ブルジョア倫理学の課題と特色とを見よう。
古代に於ける倫理思想がそうだったように、近代に於ける倫理思想の自覚も亦、一般思想の激しい動揺、即ち社会機構の著しい変革によって促された。すでに述べたように、道徳は社会秩序の分泌物のようなもので、従ってその反映である道徳意識乃至倫理観念は、社会秩序の上部構造的な表現に他ならないが、社会秩序が比較的安定を得ている場合には、その道徳乃至道徳意識は、自分の内に何等の抵抗も矛盾も感じないので、倫理思想は殊更自覚される縁もなければその必要もない。倫理が問題として自覚され、倫理学などが発生するのは、一般に社会変動と夫に基く思想的動揺とに照応してのことなのだ。近代ブルジョア倫理学の発生も亦そうなのである。
前にも云ったが、近代倫理学はイギリスのブルジョア倫理学として発生し又発展した。その直接の源をなすものはトーマス・ホッブズであった。ホッブズに先立つエリザベス時代は、イングランドがヨーロッパ[#「ヨーロッパ」は底本では「ヨーロョパ」と誤記]に於ける制海権を握り植民地貿易企業には莫大の利潤をあげ得た、商業資本主義の大規模な発達時代であった。当時の海外貿易会社は一〇〇割の配当をなし得たとさえ云われている。尤もこの点ルイ十四世治下のフランスでも大した差はなかったのだが、併しイングランドに於ける特色ある一事情は、新興ブルジョアジーの早い発達が容易に地主貴族の利害と結合出来たという点に存する。だから反封建的なノミナリズム的な経験論的機械論(之が近世ブルジョアジーの本来の世界観であった)が、絶対君主主義などと理論的に結合することも強ち不可能ではなかったので、恰もホッブズの倫理思想は、そうした場合に相当するものに他ならなかったわけだ。
ホッブズの倫理説は、人間性[#「人間性」に傍点]の検討から始まる。と云うのは、人間の情念(Passion)の分析から始まる。人間の情念は精神の機械的運動に他ならないが、一般的な情念としては愛好・欲求(索引運動に相当する)と苦痛・憎悪・恐怖(反発運動に相当する)とが対立している。その根柢を貫くものは権力と名誉との欲望だ。それ故人間は元来一人々々夫々皆第一人者となろうとして競争と闘争とをなしつつあらざるを得ない。所謂「万人が万人に対する闘い」である。各個人はその自然状態に於ては、キリスト教的伝統観念とは反対に、自己保存と自己増殖との欲望によって動かされる野獣か狼に他ならない。こうして各個人は無限の権力を欲するものなのだ。その際、善[#「善」に傍点]とは銘々が自分に気に入った都合のよいこと以外のものでなく、夫が各個人にとっての正義[#「正義」に傍点](法)というものに他ならぬ。第一の善は自己保存であり、第一の悪は死ぬことだ、とホッブズは主張するのである(読者はここに、道徳の問題が人間性の問題から善悪の標尺の問題へ移行するのを見るだろう)。
処がこの自由状態に於ける各人は、お互の反目猜疑抗争が、銘々の生存
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