いるのだ。
 だがこのイデア論的倫理説は、一種貴族的な観念論(之は当時政治的には反動を意味した)に立脚したにも拘らず、それであるが故に却って今日の倫理学に較べて、すぐれた幾つかの点を有っている。この道徳理論は当時の(今日でもそうだが)常識にも拘らず、道徳をば専ら道徳律を中心として考えるのでなく、又徳目さえがそこでの最後の問題ではなかった。その善なるものが所謂善悪という便宜的な価値標尺の如きものでなかったことは、何べんも述べた処だ。
 道徳という観念をより近代的なものに近いものへと齎したのは、ストイック派やエピクロス派である。これはソクラテスと小ソクラテス派の忠実な伝統を追うものであって、道徳は個人の生活術[#「個人の生活術」に傍点]を意味することとなり、ここに云わば倫理学のアウタルキーが確立されたのである。と云うのは、道徳はこの倫理学によると、社会や家庭の問題とは全く無関係に、完全に個人の関心として、一つの小さな封鎖された纏りを持つ領域となる。独身のルンペン主義哲人で有名なキニック派のディオゲネスや、下ってネロの忠良な廷臣セネカ(ストイック派)などを思い起こせば、この点は明らかだろう。エピクロスは甚だ社交的な敬愛すべき哲人だったので有名だが、その道徳理論は、略々ストアのゼノンと同じに、不動心[#「不動心」に傍点]という知的エゴイズムに他ならなかった。
 これ等の道徳理論家達は、ギリシア・ローマ期を通じての社会的動揺に処してその道徳を社会に於て貫く代りに、之を個人生活の生活術にまで萎縮させることによって、道徳を著しく倫理学的なものにした。道徳の観念は個人主体の心理にまで深められはしたが、併し之を、知的に見れば全く便宜的なものに他ならない処世術に仕えさせたがため、結果として退屈な徳目の教説に終らざるを得なかったのである。彼等による道徳の問題は幸福の探究[#「探究」に傍点]であったのだが、この実践的な課題の解決も、社会的に見れば完全な無為無能を意味する個人の心の静けさ以外には求め得なかった。之ならば奴隷にも抑圧された原始キリスト教徒にも、カエサルと同様に、あて嵌まるわけだ。個人主義的、主観主義的な観念論的道徳観念の、古代的な代表が之なのである。
 古代乃至中世に於ける観念論的道徳観念のもう一つの典型は、教父乃至スコラの倫理説であるが、その根源的なものは教父・聖アウグスティヌスのものであった。彼によれば神の存在の証明は宇宙論的にも心理的にも出来ると云うのであるが、神の道徳的証明が何より今興味がある。人間が善をなすように仕向けるものは、社会其の他による外部的強制ではない。それはただ善き意志[#「善き意志」に傍点]だけがなし得る処だ。これは神の意志である他ない、と云うのである。人間はこの神に仕え、神はその善き目的の下に人間をあらしめる。神は人間に恩寵を垂れ給う。そしてこの恩寵の内にこそ人間の道徳が横たわるのである。――人間は意志の自由[#「意志の自由」に傍点]を持っている、これこそ神が人間にだけ与え給う恩寵だ、従って之は実は人間のものではなくて神にぞくする。その意味では吾々は道徳的に決定論・宿命論のものだ、意志の自由[#「意志の自由」に傍点]は本当ではない。だが事実、神が与えた意志自由によって人間は現に悪をなすことが出来る。処がこの悪も亦恩寵の一つなのだ。悪は世界の全体の善に寄与するためにあらざるを得ないものだ、と云うのである。馬は石に躓いても、躓くことの出来ない石よりも、よく歩くものであり、人間は自由意志によって罪を犯しても、自由意志がなくて罪を犯すことさえ出来ない他の動物よりも、立派なのだ、と云う。
 アウグスティヌスによれば、道徳は幸福[#「幸福」に傍点]と永生[#「永生」に傍点]との内に存する。ギリシア哲学者はエピクロス学派もストイック学派も幸福を地上のものに限って考えたので、之を永生へ結びつける術を知らなかった。処が真の完全な幸福は、神を楽しむことでなければならぬ、と云うのである。――でここに、道徳に就いての倫理学的観念に就いて、神の世界がその根柢を与えることとなったわけだ。道徳的な善悪は、イデアの問題でもなければ現世的な生活術の問題でもなくて、天国と地上との対立のことでしかなくなった。之はヘブライ的思想から来た全く新しい観念論的観点なのである(ヘブライ思想をギリシア思想に結びつけたものがこのアウグスティヌスで、之に先立って、ギリシア思想を東方思想に結びつけたのがプロティノスであった)。
 だが夫と同時に、エピクロス学派やストイック学派には見られなかったような、一つの視野が開かれて来たことを見落してはならぬ。と云うのは、アウグスティヌスの「神の国」はカエサルの国の対蹠物に他ならなかったので、当然この現実の社会[#「社会」に傍点]
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