に傍点]は近代ブルジョア倫理学によって、決算報告を受け取ったという形であるし、それだけではなく、このブルジョア倫理学の崩壊と共に、古来観念論的に提出されて来た道徳理論が、初めて科学的な会計検査を受ける時期に這入る、というわけだからである。道徳の唯物論的理論こそ、古来の倫理思想乃至倫理学と、近代倫理学思想との、本当の決算でなければならぬだろう(一般の倫理学史としてはF Jodl,Geschichte d.Ethik,2 Bde.が、短いものではクロポトキン『倫理学』が便利である)。

 さて所謂倫理学(近代ブルジョア倫理学)の一般的特色に就いてはこの位いにして、今度は倫理学による道徳の伝統的観念を明らかにする順序である。それにはこの倫理学的道徳観念が、どのような道徳問題を選択したか又するか、そして之を如何なる形で解こうと欲したか又するか、を見ればよい。
 古代支那や古代インドに就いては暫く措こう。古代ギリシアに於ては、道徳が倫理学的[#「倫理学的」に傍点]反省の対象となったのは決してそれ程古い時代からではない。なる程道徳的観念が思想一般に一定の作用をし始めたのは、恐らくギリシア都市国家の成立とその社会秩序・社会規範の成立とに前後する古い時代であり、特にギリシア哲学の発生と時期を同じくするらしい。ホメロス的伝説に見られるような諸神の道徳的無秩序を清算して、道徳的秩序を打ち建てねばならなかったということが、ギリシア哲学理論の発生原因の一部分であったとされている。だがここでは秩序は主として自然[#「自然」に傍点](フューシス)として把握されたのであって、法[#「法」に傍点](ノモス)として取り出されたのではなかった。道徳論が自然論から分離し始めたのは、云うまでもなくソフィスト達からであり、彼等は主にアテナイ其の他の都市国家を中心とするヘラス地方(ギリシア)の経済的・政治的・外交的・軍事的な動揺を反映して、自然論に対する懐疑から、道徳に就いての懐疑にまで到達したものである。
 この道徳論の発生と共に、ギリシア哲学は著しく観念論的な問題の提出をし始めたことを注意せねばならぬ。道徳そのものは明らかに観念乃至イデオロギーにぞくする部面が著しいから、道徳問題を観念論的な形で提出することには、一等安易な初歩的な必然性が有ったわけだ。ソフィストが有った問題は、それが理論的な範囲にぞくする限り、ソクラテスを通って二人の代表的な貴族層出身の哲学者プラトンとアリストテレスとによって引き継がれた。ここにギリシア特有の倫理学が成立する。
 ギリシア文化の所謂繁栄期(実は一種の頽廃期なのだが)を代表するこの哲学的トリオが、道徳に就いて提出した課題は、何が善であるか、否善と云われるものは何か、であった。ソクラテスは英知こそ快楽であり幸福であり、そして之こそ善でなければならぬと考えたが、プラトンが善のイデアを一切のイデアの最高峯に、或いは一切のイデアを統一するイデアとしたこと(「ピレボス」篇)は、既に触れた。アリストテレスはその『ニコマコス倫理学』に於て、善をば、中庸・程の好さ・に求めている。――だがこうした善のイデアは、正にイデアであるが故に、決して今日の倫理学や道徳常識で云うような、ああしたただの倫理価値[#「価値」に傍点]標尺の如きものと一つものではなかったのである。イデアは云わば英知的な眼とも云うべきものを以て見[#「見」に傍点]られる処のものだ。価値のような云わば論理的な想定のことではない。善がギリシアに於て美や幸福や快楽の意味を持ち、又その意味に於て真であり有利なものであったのは、そのためである。
 善というものはイデア(之は決して近代的な意味での観念[#「観念」に傍点]のことではない)という存在として見る、この存在論的倫理説は、云うまでもなく古代的形態に於ける観念論の頂点をなしている。ここでは善は見ら[#「見ら」に傍点]れるもの(イデア)として観照の世界にぞくする。善が人間の実践行動に直接関係しているのは勿論だが、今の場合その実践なるものそのものが観照の対象でしかない。善は意志の目的物ではなくて寧ろ哲学的直観の対象である。善は一つのイデアとして、主観的なものではなくて寧ろ客観的なものだが、それだけに一向主体的なものにならぬ。ここにこの道徳観念の形式主義(形相主義から来る)と普遍主義と非歴史主義との一切が結果する(このイデア論はアリストテレスが克服しようとした処であるが、今の問題はイデアによって代表されるギリシア思想自身にあるのだ)。当時の実際的な道徳観念は、云うまでもなく奴隷所有者の支配的自由民のものだが、夫がプラトンやアリストテレスの社会理論の内に根深く食い込んでいるにも拘らず、善のイデアは特にプラトンに於てのように、そうしたものから全く超然として
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