して皮相なものがその中でも特に倫理思想と呼ばれ、そして他のそれより立ち入って科学的に分析された反映の部分は偶々他の名で呼ばれるに過ぎないから(道徳に関する社会科学的観念や文学的観念の如き)、倫理思想が古来人間の生活と思想とを一貫して来ていることに何の不思議もない。従って所謂倫理学の素材も亦古く古代と中世とを通じて伝承されたものによる他はなかったわけで、その意味から云えば又、古来倫理学は存在したのだ。――つまりブルジョア倫理学は(之はイギリスに発生しドイツ観念論との接触を以て栄えて今日に至っている処のものを中心とする)、当然なことながら、封建制下に於ける倫理思想乃至倫理学(主にキリスト教神学的な)、又それにも増して、奴隷制度下に於ける古代倫理思想乃至倫理学(末期ギリシア及びギリシア・ローマ時代の哲学と教父神学とを中心とする)からの伝統を有つわけで、この伝統の近世資本主義的変貌であると云っていいだろう。
 すでにアリストテレスでは「倫理学」と呼ばれる書物は二つまである(道徳論と題するものも一二あるが)。このようにこの名称自身は、古い歴史を有っているのは断わるまでもない。併しそれであるからと云って、その内容をすぐ様近代の倫理学の発端と見做すことは誤りであるし、又之が学問の世界に於て占めた位置関係から云って今日の所謂倫理学と同じだったとも云えない。第一そこで問題になる善(To Agathon)の観念にしても、近代倫理学で問題になっている所謂道徳や倫理の善悪の善[#「善」に傍点]のことではないので、それより活々として、真理で美しくて有益で怡ばしいものを意味している。従ってこの倫理の根本観念が占める理論上の地位は、遙かに今日のものよりも実質的な重大性と含蓄とを有っていたのだが、併しそれだけに却って、倫理学自身の独立性はあまり著しくは現われ得なかったわけだ。プラトンの国家論は寧ろ道徳論にぞくするユートピアだろう。
 現にアリストテレスでは、倫理学(エティカ)の位置は経済学(オイコノミカ――之は純粋にアリストテレス自身のものではないらしいが)と政治学(ポリティカ)とに先立つ処に意味を有っている。まず個人の問題を解いてから次に家庭の問題、それから社会(国家)の問題を解いて初めて、この一連の課題[#「一連の課題」に傍点]は解けるのである。倫理学だけを取り出しても、それだけで道徳という事物が根本的な解決を与えられるわけではない。この点、近代倫理学の心がけや主張と可なりに違っているのである。今日の倫理学は、実際上今日の(ブルジョア)政治学や(ブルジョア)経済学と殆んど全く何の関係を有たずに済む哲学の一分野となって了っている。尤もイギリスに於けるブルジョア倫理学の発生当時の動機に於ては決してそうではなかったのだが、夫が今日ではそういう退屈なことになって了っている。このことに一定の意味があるのだ。と云うのは、こうしなければ道徳に就いてのマンネリズム的な常識的観念の允許を得ることが出来ないからだ。ブルジョア哲学そのものの内部に於ても、倫理学という専門学科は孤立した独自のシステムを持てるものだと倫理学の教授達は想定している。多くの倫理学の教科書は、そういう立場から今日安心して書かれ得るという実状だ。
 従来「倫理学」という名がついた書物や理論でも、必ずしも近代ブルジョア学問の一つとしての所謂「倫理学」でない所以は、スピノザの哲学体系たる『倫理学』を見ても分ることだ。――こういう風にして、古来から存する倫理思想や自称倫理学の書物は、決してそのまま今日の所謂「倫理学」でもなければ又その濫觴でもない。
 だがそれにも拘らず、倫理の問題・道徳の問題は、古代から今日の倫理学に至るまで、一定の脈絡を以て伝承されている、と云わねばならぬ。ブルジョア倫理学にも実はありと凡ゆる形態があり、又この学問ほど様々な角度から試みられているものはない。例えばシジウィクは倫理学の方法をエゴイズムと直観主義と功利説とに分類しているし(The Methods of Ethics)、J.Martineau(Types of Ethical Theory,2 Vols.)はより広範な立場から倫理学の形態を区分している。現代では形式倫理学と実質倫理学との区別などが試みられている。だがそれにも拘らず総括的に見れば、今日のブルジョア倫理学は、古来の倫理思想乃至倫理学の、一応の決算[#「一応の決算」に傍点]でなければならぬのである。――なぜ一応の決算かと云うと、従来の倫理思想乃至倫理学は、何と云っても(多少例外と考えられる場合――例えばストイック学派の唯物論に見える倫理学までも含めて)、観念論に立脚したものであり、又事実多くは観念論自身の拠り処であったのだが、この観念論的倫理思想[#「観念論的倫理思想」
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