道徳の観念
戸坂潤
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)[#「生活意識」に傍点]
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第一章 道徳に関する通俗常識的観念
道徳の問題を持ち出す際、いつも邪魔になるものは、道徳に関する世間の通俗常識である。ここで通俗常識というのは、常識があるとか常識がないとかいう、ああした人間の共通な生活必需観念の謂ではなくて、却って世間の人がごく便宜的に大まかに粗雑に振り回している処の、出来合いの観念のことを云うのであるが、この意味に於ける通俗常識は、事物を少し細かく検討しようとする時に、大抵邪魔になる。これは今更ここで説くまでもないことだろう。だが今の場合、事が道徳の問題に関してだと、この邪魔になり方が普通の場合に較べて比較にならぬ程甚だしいのだ、ということを注意したいのである。それはなぜかというと、後に説明するように、道徳そのものが実は或る一定の意味に於ける常識に他ならないからで、常識自身はそこまでつきつめて考えないに拘らず、道徳とは常識そのものと斉しく生活意識[#「生活意識」に傍点]全般を総括する名称だと考えられねばならぬだろうからである。生活意識全般は、或る一定の意味の常識なのだ。
尤も道徳というものに関する常識的な観念が、道徳というものに就いての理論的な分析省察の邪魔になるからと云って、この常識自身と全く別な世界にぞくする言葉で道徳を説明するのでは、元来道徳の説明[#「説明」に傍点]でも何でもなくなって了うだろう。そういう意味では道徳の理論的な観念はいつも道徳の常識的観念を縁とすることによって、その検討が始められねばならず、そして終局に於て、常識的道徳観念からの絶縁としてではなくて却ってそれの深化又は変貌として、道徳に関する理論的概念を取り出さねばならぬ。だがそのためにも、道徳に就いての常識的な観念が、殆んど迷信に近いまでに頑なで有害なものだということを知らねばならぬ。
常識はまず第一に、道徳というものを社会構造の領域乃至文化領域の一つだと仮定している。と云うのは、社会機構の諸層は常識によると、経済・政治・社会関係・道徳界・芸術・宗教・学問・等々に区分されている。この区分法の原理を吟味して社会構築の段階として之等のものを適当な順序に排列するのだとすれば、この区分をすること自身は科学的なことで誤りではないのだが(史的唯物論の不朽の功績の一つはここにある)、併しそれにも拘らずその場合にも、あくまで道徳に関する通り一遍の常識を利用[#「利用」に傍点]してそう云っているのであって、道徳なるものに関するこの場合の常識的想定そのものに就いては、なお問題を残しているのである。史的唯物論がそこで[#「そこで」に傍点]問題にしているのは(併し他の場合には問題がもっと変らねばならぬが)、所謂道徳なるもの(と云うのは「常識的に」道徳と呼ばれている処のもののことだ)が決してそれ自身絶対に独立した全く独自な原則に立つものではなく、実は社会機構に於ける下部構造の上に建てられた処の、そしてこの下部構造を原因とする一つの結果としての、上部構造の一部分に他ならぬ、ということであって、この所謂道徳なるものが実はどういう含蓄を有つものであるかは、その限りではしばらく論外におかれているのである。
従って、道徳がそうした何か判り切ったような一領域であり、他の諸領域との区別限界などが初めから知れ切ったものであるかどうか、それはまだその限りでは問題ではないのだ。つまり史的唯物論が道徳に対して、そのイデオロギー論的段階づけによって一定の領域を指定した限りでは、さし当り常識で道徳と呼んでいる処のものはここに位置するものだということを、科学的に単に指示したに過ぎないのであって、それ以上に、この常識的な道徳という観念によって指し示された領域が果してそのままで充分に理論的に不都合のないものかどうかは、まだ問題になっていない。――だが史的唯物論によるイデオロギー理論乃至文化理論は、問題を当然そこまで押し進めなければならない筈だ。そうすると、一体道徳とは何かということが初めて根本的に問題になる。一体道徳という観念[#「観念」に傍点]が何かということからが問題になって来ざるを得ない。道徳なるものの占める領域がどこからどこまでに渡っているかというような領土問題などは、その時、道徳という観念の如何に対応する名目的な問題になると云うことが出来るかも知れない。
道徳の領域は常識によると大して問題にならない程度に判然としているように思われている。例えば法律で禁じられていないに拘らず道徳では禁じられている行為がある。これで見ると恐らく道徳の領域は法律の領域よりも広く、そして又恐らく之を含んだものだろう、という風に考
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