に取って実は危険極まりないものであることを発見する。人間に理性乃至悟性がある限りこの発見は容易だ。そこで人間は平和を欲求するようになる。かくて今度は、善とは人間社会の平和にとって必要な凡ての手段の名であり、悪とは之を妨げるものの名だ、ということになる。では人間社会のこの平和を保証するものは何か。夫が法であり国法である。従って更に又、善とは国法に従うこと以外の何物でもなく、悪とは国法に従わないこと以外の何物でもない、という結論になる。道徳の善悪価値標尺の問題は、こうして社会国家に於ける法不法[#「法不法」に傍点]の尺度の問題に帰着する。
 ここにホッブズの有名な社会契約説が彼の倫理学に対して有つ根本関係が横たわる。社会は自由状態に於ける各個人が、その快不快の実際を理性的に反省した結果、平和機構の契約を交した処に成立するというのである。――処がこの社会なるものは、ホッブズによると実は専制君主国のことでしかない。つまり一人の支配者を選択して、他の人員は臣下として之に殆んど絶対的に服従するという契約が、初めて社会を成り立たせるのだ。君主はかくて一種の天賦の自然権を有つものとなる(尤も君主が君主に相応わしくない時は臣下は之を捕縛したり追放したり監禁したりしてもよいとも云っているのだが)。――このホッブズのアブソリュティズムは、チュードル王朝特に又スチュアート王朝のデスポティズムを倫理的に合理化したものであることは、疑いを容れない。当時個人[#「個人」に傍点]の形で現われたブルジョアジーの勢力は却って、国家[#「国家」に傍点]の形で発現したこのデスポティズムの積極的発動を促した。ハンプテンなる人物は船舶税の納入を拒否した。そしてチャールズ一世は議会を半永久的に解散して了った。――こうしたわけでホッブズ倫理学は、イギリス・ブルジョアジーの発展初期に於けるこの云わば変則な必然性を表現した処の、やや変則な[#「やや変則な」に傍点]ブルジョア倫理学に他ならなかったのである。やや変則なとは次の意味だ。
 一般にホッブズの哲学が機械論的唯物論の代表であったことは、今更説明を必要としない。その倫理学も全くこの唯物論の可能的な帰結の一つに過ぎない。だがこの唯物論がやがてジョン・ロック等の手によって、経験論にまで精練されることによって、イギリスの爾後の倫理学は名目上でも完全な観念論の典型となるようになった。特に経験論の一つの形である処の、道徳感情や道徳感覚や常識哲学の常識を依り処とする各種のイギリス道徳科学・道徳哲学・倫理学はそうだ(シャフツベリ伯爵・トーマス・リード其の他)。機械的唯物論が倫理学に於て再び口を利き始めたのはフランス唯物論者に於てであった(エルヴェシウスやホルバッハ伯爵)。――ホッブズの唯物論的倫理学が(ブルジョア)倫理学であるべきであった限り、それは歴史的に不幸に終らざるを得なかった。なぜなら其の後のブルジョアジーは、倫理学の内に他ならぬ観念論の代表者と足場とを発見しようと欲したのだからである。
 だがそれにも拘らず、ホッブズ倫理学の人間性論[#「人間性論」に傍点]が、長くイギリス倫理学の根本課題として残されたことは、重大である。先に云った一連の道徳感情論的倫理学は正にここから出発したのであったし、イギリスの政治学や経済学も亦これなしには発育しなかった(ロック・ヒューム・スミス・等を見よ)。そして人間性の善悪[#「善悪」に傍点]の問題(ホッブズに於ては人間性悪説だった)は、道徳の問題を善悪の価値対立問題として、その後の倫理学を支配した(ベンサムの功利主義に立つ最大多数の最大幸福説――之はベッカリーアの思想から糸を引いていると云われる――を見よ)。そして最後に、ホッブズが善悪の対立を法不法の対立に還元することによって、道徳を少なくとも何よりも道徳律[#「道徳律」に傍点]として理解せねばならなかったことを注目しなければならぬ。之も亦その後のブルジョア倫理学に於ける常識的道徳観念の一つの形態をなすものである(之はカントによって探究された形態の「道徳論」だ)。
 だが、道徳がその本質を社会[#「社会」に傍点]の内に持っているということは、ホッブズの倫理説によって初めて真向から取上げられた処の、忘るべからざる特色なのである。この特色は事実上唯物論(機械論)的倫理学と必然的な関係があるものであって、後にエルヴェシウスなどは十八世紀に於けるその代表者でなければならぬ。尤も機械的唯物論は道徳の歴史的[#「歴史的」に傍点]発達を理解し得ないのを常とする。従って之によっては道徳の社会的本質は、本当の処を理解し得ないのが当然だ。之は機械論的唯物論的倫理学の最大の根本的欠陥であると共に、同時に又、ブルジョア観念論的倫理学にとって略々共通の(ヘーゲルは除く)根本的
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