真理として持ち出されるのを常とすることには、一つの事情があるのである。社会の支配者がその社会の規範をあくまでも保持しようとする処に、道徳という言葉の御利益が必要なのである。つまり道徳が現実にそうした階級規範[#「階級規範」に傍点](もはや単なる社会規範ではない)として機能していればいる程、益々社会規範は単に社会規範としてではなくて正に道徳として神聖化され絶対化される必要があるわけで、ただの社会規範ならば、道徳がそういう社会規範だという説明を、そんなに恐れる必要はなかっただろう。
それでこういう結論になる。社会が階級社会である限り、道徳とは階級規範に他ならない。之が階級道徳[#「階級道徳」に傍点]乃至道徳の階級性[#「道徳の階級性」に傍点]ということである。そして社会の階級的変動(社会の凡ての根本的変動は階級的変動に原因する)は、この階級規範たる道徳[#「道徳」に傍点]の変革を必然的に結果する、という結論だ。――ここでは階級的に有益なものが道徳的で、階級的に有害なものが不道徳的だ。処が階級はいつも階級対立に於てしかあり得ないのだから、道徳は今や二つの体系に分裂する。ここにブルジョア道徳[#「ブルジョア道徳」に傍点](そこからブルジョア通俗常識的道徳観念やブルジョア倫理学的道徳観念も生じたのである)と所謂プロレタリア道徳[#「プロレタリア道徳」に傍点]との対立が起こる。道徳の闘争がそこに横たわる。旧道徳は歴史的必然の理法によって、新道徳に道を譲らざるを得なくなる。勝利する道徳が新道徳[#「新道徳」に傍点]となる。そしてこの推移の過程の内に、多くの道徳的混乱やアナーキーが、道徳的犠牲の様々が、織り出されるのである。――こういう根本的な而も眼前の事実を認めまいとするために、恰も倫理学というブルジョア理論が、今日存在理由を有っているのである。
この道徳の歴史的推移、旧道徳の殆んど完全なる根絶、全く新しい、否同じく道徳という言葉を以て云い表わしていいかどうか判らない程に新しい道徳の漸次的形成と定着、こうしたものの生きた実例を吾々の眼の前に見せているものが、ソヴェート・ロシアの最近の事情だろうと思う。今までブルジョア諸国に於て道徳自体の問題としては解くことが絶対に絶望だと思われたような問題が、社会科学的に次第に根本的に解かれつつあるのである。特に宿命的に考えられる道徳問題は性道徳の夫だろうが、ソヴェートの道徳的実験はここでも見事に成功した。ここではただ、旧い「道徳」なるものを忘れさえすれば、真に道徳的になれるというような具合である(コロンタイ『新婦人論』やS・ヴォリフソン『結婚及び家族の社会学――マルクス主義的現象学入門』などが、この点の参照となる)。
さて道徳を社会規範・階級規範として説明出来た限り、実は、神秘的なニュアンスを歴史的に纏っている道徳という言葉などは、もはや理論的にあまり賢明なものではなくなった、ということを告白しなければならぬ。それだけではない、今まで人々が道徳という名の下に日常見聞きしてなれ親しんでいる旧既成道徳が、根柢的に新しい形のものとおきかえられたような実例に臨んでは、「道徳」という言葉は心理的にもあまり尤もなものではなくなって来ただろう。
元来道徳という言葉は通俗常識が最も愛用する言葉であって、吾々が日常この言葉を尊重しているのも亦、全くそれだけの理由からなのだが、処で通俗常識が之によって何を意図していたかというと、認識の不足と認識の歪曲とを、事物の科学的理論的分析と説明との欠乏と忌避とを、夫によって埋め合わせて合理化そうというのであった。だから科学[#「科学」に傍点]はこの「道徳」なるものを、どこまでも信用しなければならぬ義理合いには立たぬ。――のみならず社会規範と雖ももし階級社会が消えて無くなれば大して積極的な価値を有ったものではなくなるだろう(なぜなら今日までの社会規範は殆んど総て実は階級規範だったから)。だから夫は特に道徳という勿体振った表現を必要とする程に勿体振ったものではなくなるだろう。
いずれにしても「道徳」という観念は、有用なものではなくなる。道徳は認識[#「認識」に傍点]へ解消する。道徳の真理は科学的真理[#「科学的真理」に傍点]に解消する。レーニンはカリーニンに向かって「演劇が宗教にとって代るだろう」と云ったそうだが、丁度それと同じに、認識が道徳にとって代るだろう。否、とって代らねばならぬ。
かくて社会科学的観念によれば、道徳なるものは、この通俗常識が好んで仮定している道徳なるものは、遂に批判克服されて無に帰する。(ブルジョア)常識的観念乃至(ブルジョア)倫理学的観念としての道徳は、科学的[#「科学的」に傍点]でなかった。「道徳」は消滅する。「道徳」は終焉する。
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