徳を単なる社会関係そのものに還元して了うことではない。もし之を単なる社会関係に還元して了ってよいなら、初めからイデオロギーなどというもので道徳を云い表わす必要はなかった筈だ。イデオロギーは下部構造としての単なる社会関係に還元出来ない上部構造であったればこそ、特にイデオロギーだったわけだ。
だから道徳には道徳に固有なものが存するのである。之がなければ道徳は道徳にならぬ。そしてその固有なものと云うのが社会規範ということだ。道徳に固有なものと云っても、夫が何か道徳という一定の封鎖された埒内だけで独自に孤立的に片づくものだと考えるならば、そういう封鎖国家のような倫理的アウタルキーが、例の倫理学でいう「道徳」の世界だったのだ。そんなものは道徳の固有性を倫理学的[#「倫理学的」に傍点]に誇張した偏見に過ぎない。決して固有なものがないというのではない、その固有なものをこういう風に理解することが根本的に誤っているというのである。――道徳には善悪の価値対立というような固有なものがある。それは一つの事実だ。少なくとも人々が自分も他人もそういう価値感を以て行動しているという一つの心理的事実だ。意志の自由が一つの心理的事実であると同じに事実だ。だから夫は否定出来ないと同時に、証明を要するものでもなければ証明が出来るものでもない。自由意志や価値感情という事実を証明[#「証明」に傍点]しようとした如何なる観念論者も理想主義者も私は知らない。と同時に彼等はこうしたものを説明[#「説明」に傍点]しようともしないのが特色である。彼等は単にこれを事実として認めることを人に求める。而もそうすることを何かその証明か説明かと思い違いをしているので、唯物論者に向かっても、出来るものならこの事実を証明して見たらどうか、と試みて来る。だが史的唯物論者は事実の証明[#「事実の証明」に傍点]などを必要とはしない、事実は認定されさえすればよい、必要なのはこの事実の成立[#「事実の成立」に傍点]の「説明」なのだ。
未だかつて、道徳という一つの事実を説明[#「説明」に傍点]し得た観念論的倫理学を私は知らない。史的唯物論のイデオロギー論による道徳理論が、初めて道徳の事実を正当に説明しようと企て、又事実之を説明しつつあるのである。史的唯物論は価値の発生を事実から説明するのである、之に反して観念論や倫理学は、価値によって事実を説明するか、それとも単に価値と事実とを区別して見るだけだ。――で道徳は、社会規範として説明[#「説明」に傍点]される。
倫理学は倫理的価値という一つの感情上の事実を単に主張するだけだ、社会科学的道徳理論は、倫理的価値感を現実的に陶冶する。倫理学は単に意志の自由の否定に抗議を申し出るだけだ、社会科学は自由一般の獲得とその現実的な形態の規定とを志す。倫理学は理想を単に想定として愛好する、社会科学的道徳理論は、一定の理想を現実的に割り出し之を現実的に追求することを志す。――この相違は凡て、道徳を社会規範として説明[#「説明」に傍点]しないかするか、の相違から来るものに他ならないだろう。
道徳が一つのイデオロギーとして社会規範として説明される時、当然なことながら、道徳の発生・変遷・消滅等々の歴史的変化が結論される。一定の社会規範の物質的原因であった社会に於ける生産関係は、その内に含まれている矛盾の関係に推されて、変化せざるを得ない。従ってその結果、道徳も亦必然的に変化せざるを得ないのである。ただ、原因の変化に較べて結果の変化の方は、大体時間的に後れるもので、道徳と現実とはその意味でいつも或る種の矛盾撞着を免れない。そういう意味で又、道徳はそれ独自の運動法則を有っているかのような現象を呈するのである(イデオロギーは凡てそうだ)。道徳の世界の絶対的な自律独立を認めようとするのも、この関係を誇張する結果からだ。
だから道徳(道徳律・善悪・其の他等々)は決して絶対真理[#「絶対真理」に傍点]ではない。それが事実上道徳的価値を云い表わす言葉である以上、道徳とは一種の真理のことだろう。だが一般に真理には決して絶対的なものはない、真理は客観的[#「客観的」に傍点]なものだ、主観的な真理などはない、客観性を有つが故に真理なのだ。だが絶対的[#「絶対的」に傍点]な真理はないのだ。もし絶対的真理があると云うなら、そういう神聖な真理は必ず何かの必要に答えている虚偽[#「虚偽」に傍点]のことだろう。法皇やツァールの真理はそういう神聖な「絶対」真理であり、即ち虚偽を蔽い匿すために神聖というベールをかけた、まやかし物に他ならない。――之は史的唯物論と唯物論的認識論との公式だが、道徳に就いても亦全くその通りなのである。
だが道徳が、その実質であるイデオロギー・社会規範、としてではなく、絶対的
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